中田村(読み)なかだむら

日本歴史地名大系 「中田村」の解説

中田村
なかだむら

[現在地名]津久見市中田町・立花町たちばなまち、津久見 久保くぼ引地ひきじ則近のちか長幸ちようこう鍛冶屋かじや田尾たおなかうち・中田

津久見川流域に位置し、東は彦野内ひこのうち村、西は西野内にしのうち村、北は宮本みやもと村。天正年間(一五七三―九二)と考えられる一一月八日の原長助書状(皇学館大学蔵)に「津久見村閼伽」とみえ、当地閼伽あか原長助は伊勢神宮の御師福島御塩焼大夫に対し御祓などを謝している。江戸時代は佐伯藩領津久見村組を構成する一村であった。正保郷帳では西野内村・彦野内村などとともに赤河内あかがわち村に含まれたと推定され、田方三九五石余・畑方四一九石余、水損所・日損所。津久見郷に属し、茅山がある。元禄見稲簿では津久見内の高なし村として赤川内浦とみえる。元禄・天保両郷帳では正保郷帳で津久見郷に属した村々とともに津久見村一村で高付される。


中田村
なかたむら

[現在地名]氷見市中田

北は中波なかなみ村、南は姿すがた村、東は富山湾に臨む。東寄りの海岸沿いに浜往来(海浜道)が通り、石動山せきどうさん丘陵に源を発する下田しもだ川が西の長坂ながさか村領から村の中央部を横切り海に注ぐ。口伝では河口一帯は塩浜であったといい、通称向ドンとよばれる家の背後の山腹にある石像を塩浜の観音と称している(灘浦誌)中太なかた村とも記される。かつては目良めら(妻良)村とよばれたと思われ、時衆過去帳(清浄光寺蔵)の一四代の項に大一坊の名がみえ、その裏に「目良」と記される。文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)に目良村とみえ、高一千七二五俵余、山銭五貫五〇〇文とある。正保郷帳では中田村・谷口たにぐち村・片海かたかい村合せて高三四二石余、田方一六町・畑方六町八反余。三箇国高物成帳でも中太村・谷口村・片海村の草高三九三石とあり、三ヵ村合せて一村の扱いがなされている。谷口村は下田川中流左岸の中田村と長坂村との中間に、片海村は中田村の北側片貝かたかい川河口付近に位置したが、のちに両村は中田村の垣内となったと思われる。


中田村
なかだむら

[現在地名]石川町中田

阿武隈高地特有の丘陵地帯に位置し、南は坂路さかじ村・谷沢やざわ村、西は形見かたみ村・双里そうり村、北は北山きたやま村、中倉なかぐら(現平田村)、東は白川郡論田ろんでん(現古殿町)。「和名抄」にみえる白河郡長田ながた郷の遺称地とする説がある。地内には南北朝初期頃の作とみられる線彫阿弥陀独尊来迎立像や、興国三年(一三四二)二月二日銘をもつものを含む三三基の板碑が所在する。字浮内うきうち瀬谷せや館、字上三森かみみもりに三森館、字下矢造しもやづくりに矢造館などの中世城館跡がある。天正一八年(一五九〇)二月二六日の石川昭光知行充行状(迎森一文書)に「任侘言、沢井ニ中田小七郎・瀬谷五郎左衛門両人抱之所、遣之候」とみえ、むかい(迎)藤六郎に所領が宛行われているが、その名などからして中田・瀬谷両氏は当地を在所とし、石川昭光の家臣となっていたと思われる。


中田村
なかつたむら

[現在地名]若葉区中田町なかたちよう更科町さらしなちよう御殿町ごてんちよう

古泉こいずみ村の北西にあり、東金とうがね道が通る。御茶屋御殿が置かれた。史料上は仲田ともみえ、古くは古泉村も当村の内。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、和泉いずみ村などと五〇間の道普請を負担。文禄二年(一五九三)旗本滝川領、寛永一〇年(一六三三)同北条領、寛文一三年(一六七三)当時も同領(石橋家文書など)。元禄一二年(一六九九)旗本戸田領となり、幕末に至る。同一三年頃の下総国各村級分では高五八三石余。同一一年の田五六町一反余・畑二四町三反余・屋敷一町五反余、用水普請所一二ヵ所、千葉街道並木松五八本(「村指出帳」鳥海家文書)


中田村
なかだむら

[現在地名]金山町中田

金山十日町かねやまとおかまち村・飛森とびのもり村の北に位置し、羽州街道が南北に走る。本郷集落は中田春木なかだはるき川と外沢とざわ(主寝坂川)の合流点東にあり、両川流域に集落が点在する。南方金山宿を出て北上する羽州街道は当地を経て主寝坂しゆねざか峠を越え及位のぞき宿(現真室川町)に至るが、両宿の間にあって峠をひかえる当地は宿場的色合も濃く、秋田藩佐竹家や弘前藩津軽家などが、天候急変の際に当地で宿泊・休息することもしばしば起こっている(栗田文書)。新田本村鑑では枝郷として下中田しもなかだ・武道越・杉沢すぎさわ小瀬見こぜみ(小蝉)をあげる。元和八年(一六二二)の御前帳写では中田沢村とみえ、高四三二石余、寛文四年(一六六四)には高六五〇石余、うち新田一七三石余(新田本村鑑)、文化元年(一八〇四)には高四〇七石余、うち田方三四六石余、反別五〇町九反余、うち田方四一町八反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数六三(うち借屋五)、人数三五二、駄馬一・駒三四。


中田村
なかだむら

[現在地名]山中町中田町・二天町にてんまち

長谷田はせだ村の北、刈安かりやす山に続く丘陵と大聖寺だいしようじ川の河谷との間に南北に細長い村域をなす。集落は河岸段丘上にあり、北端部に出村の二天(日天)があったが、茶屋のみで高付はされていなかった。正保郷帳によると高一四六石余、田方三町四反余・畑方七町三反余、物成高七五石余。長谷田村上原うわばら村・塚谷つかたに村とともに紙屋かみや谷と称され、大聖寺藩の紙を産した。延宝四年(一六七六)当村五郎兵衛と足軽小頭栗村茂右衛門が河北かほく二股ふたまた(現金沢市)へ紙漉習いに遣わされ、紙屋谷の村々に製紙業を広めたという(聖藩年譜草稿)


中田村
ちゆうでんむら

[現在地名]小松島市中田町

小松島浦の北に位置する。北にしば山があり、東部は小松島浦湾に臨む。康正二年(一四五六)正月八日の先達栄清願文案(紀伊二階堂家文書)に「阿ハ勝浦郡中田 本宮願文」とある。近世は勝浦かつうら郡のうち。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「中田」とみえる。元和三年(一六一七)田宗勺が中田に屋敷を与えられ、隠居高のうち茶料高五〇〇石余を給されたという(阿淡年表秘録)。寛永一七年(一六四〇)「中田村」内の横洲の南の洲崎(東西一〇〇間・南北二〇〇間)を寺沢宗斎・同六右衛門が所望して許可されている(寺沢家所蔵文書)


中田村
なかだむら

[現在地名]戸塚区中田町・弥生台やよいだい

東から北は岡津おかづ村、南は汲沢ぐみざわ村、南東は矢部やべ村、西は和泉いずみ村、南西は深谷ふかや村、北は阿久和あくわ村と接する。

文禄元年(一五九二)一月三日の石巻康隆への知行所務状(県史八)に「相州東郡村岡之内中田村」がみえる。近世を通じて旗本石巻領。元禄七年(一六九四)の戸塚宿助郷覚書(県史九)では高一〇〇石を勤めている。嘉永三年(一八五〇)一二月の武蔵川越領除高に付代助郷村名控(田島文書)では、助郷残高のうち一一七石を代助郷として翌年一月から一〇年間勤めることを命じられている。


中田村
なかだむら

[現在地名]岡山市庭瀬にわせ

足守あしもり川の左岸に位置し、西は下撫川しもなつかわ村。庭瀬川(大川)の遡行上限にあって川湊をもち、南下すれば足守川を経て児島こじま湾に出る。村中を東西に鴨方かもがた往来が横断し、東の平野ひらの村との境に一里塚がある。寛永備中国絵図に庭妹村とみえ、高一千五〇〇石、庭瀬藩戸川氏領。「戸川土佐住所」とあるように、その陣屋が設けられていた。正保郷帳では庭瀬村とみえ同高、同藩領。枝村として川入かわいり村・小西こにし村がみえ、「水損所中」とするが、現在も陣屋跡を中心に水郷風景がみられる。正保四年(一六四七)の道筋并灘道舟路帳(池田家文庫)によれば、「庭瀬内海」は広さ四五間、満潮時には深さ七尺で二〇〇石積の船が入るが、干潮時には猟(漁)船も入らないとあり、また鴨方往来に長さ七間・幅一間半の庭瀬橋があると記す。


中田村
なかだむら

[現在地名]倉吉市鴨河内かもごうち

福山ふくやま村の南西、小鴨おがも川左岸、天神野てんじんの台地の南東麓に位置する。拝領高は五一八石余、本免は五ツ二分。山田氏(二家)・山岡氏・深田氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高五七〇石余、竈数五二、村内に馬後大明神・新大明神・小鴨谷三崎大明神・八幡宮・牛頭天王・三宝荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五九六石余、竈数四五。藪役銀八匁九分・山役米三石四斗八升が課されていた(藩史)


中田村
なかだむら

[現在地名]上平村上中田かみなかだ

下島したじま村の庄川対岸、岩壁の上の台地に位置し、東は標高一二〇〇メートル級の山、南は新屋あたらしや村。北は一段下がったした村と一村のように接する。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「赤尾」の内に中田五郎左衛門尉の名がみえる。寛永七年(一六三〇)の高三五石余、免四ツ六歩余、定納金子五両二匁八分余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)。高・免は幕末まで変化なし。


中田村
なかだむら

[現在地名]智頭町中田

坂原さかわら村の南西にある。集落は智頭宿から物見ものみ峠越で美作国へ向かう街道の北側(因幡志)かご山山麓より流れ出る惣地そうち川が新見にいみ川に合流する地点に発達。拝領高は九三石余。石黒氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高一〇一石余、毛付高一五六石余、本免六ツ七分、同年の物成高一〇〇石余、ほかに川役米五升が課されていた。


中田村
なかだむら

[現在地名]会津若松市湊町みなとまち静潟しずがた

猪苗代湖西岸にあり、西は下馬渡しもまわたり村、南は崎川さきかわ村。北東は湖岸、南西は山野が多い中に田があるので村名としたという。本村の北西八町に端村の鵜浦うのうら、本村の北西一三町に端村松崎まつがさきがある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡のうちにあり、高一五九石余。原組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二九〇石余。


中田村
なかだむら

[現在地名]米沢市中田町

外内とのうち村の西、堀立ほつたて川がまつ川に合流する地点の北に位置し、松川西岸平地に立地。戦国時代には上長井のうち。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば上長井庄「なか田」から一六貫二五〇文を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、中田郷のうち塩森兵庫が「下の在家」、飯野孫衛門が原田肥前知行所をそれぞれ与えられている。天正一五年(一五八七)の上長井段銭帳によれば中田の本段銭一六貫二五〇文の三分の一を遠藤文七が直納している。


中田村
なかだむら

[現在地名]浜松市中田町

馬込まごめ川の中流左岸に位置し、東は天王てんのう村、南は上新屋かみあらや村。慶安―承応年間(一六四八―五五)に天王村から分村して成立したという。なお享徳二年(一四五三)一二月二〇日の蒲御厨東方諸公文等申状(東大寺文書)に「隣郷勝田殿知行分中田郷」とみえ、かば御厨に隣接する中田郷は勝田氏(勝間田氏)の所領であった。


中田村
なかだむら

[現在地名]建部町中田

東は旭川に面し、南は西原にしばら村、西はさくら村、北は市場いちば村に接する平場の村。明徳五年(一三九四)正月一一日の正厳売券(豊楽寺文書)に「中田ノ大町」とあり、豊楽ぶらく寺の寺領であった。村の東の旭川沿いに津山往来が通り、往来沿いに建部新たけべしん町の町並があり、その西に家老池田(森寺)氏の御茶屋と侍屋敷があった。

津高つだか郡に属し、寛永備前国絵図に高五八六石余とある。


中田村
なかだむら

[現在地名]富山市中田・中田一―三丁目・晴海台はるみだい住友町すみともちよう永久町とわまち米田町よねだまち三丁目

もり村の東、神通川と常願寺川下流に挟まれた平地西寄りの穀倉地帯。かつては長榎ながえのき(のちの大村)領内の中田という字名の地域を開拓、村立てしたのが地名の由来という(越中志徴)。正保郷帳では高五九四石余、田方三八町五反余・畑方一町一反、新田高六七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高七二九石、免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。天保一三年(一八四二)には七木運上役八匁七分が課されているが、高・免に変化はない(「村御印并当時御物成高相調理書上申帳」杉木家文書)


中田村
なかたむら

[現在地名]野上町中田

梅本うめもと川の上流西岸にあり、生石おいしヶ峰の北斜面中腹に位置する。梅本村と新荘しんじよう村の中間に挟まれているため中田の村名が起こったのであろうと「続風土記」は記す。南北朝以降は高野山領小河柴目おがわしばめ庄に含まれ、応永三二年(一四二五)五月二六日の天野社一切経会段米納日記(又続宝簡集)に、「一、小川庄内 二斗一升中田村」とみえる。


中田村
なかだむら

[現在地名]森町中川なかがわ

谷川やがわ村の南、太田おおた川右岸にある。天正一七年(一五八九)一二月の豊臣秀吉の禁制が村松家に残っている。天正一七年七月七日に発給された徳川家七ヵ条定書のうちに、「中田村」宛の一通(御庫本古文書纂)がある。周知すち郡に属する。慶長六年(一六〇一)当村の神明社は伊奈忠次より社領一石余を安堵された(「伊奈忠次神領証文写」村松家文書)


中田村
なかだむら

[現在地名]国東町中田

横手よこて村の東に位置し、田深たぶか川が流れる。天文一八年(一五四九)の一月一二日の国東郷等大工職源董次覚書(今富文書)に中田とみえるが、同史料は検討を要する。小倉藩元和人畜改帳に神西与左衛門知行分として村名がみえ、高六五一石余で、家数五九のうち本百姓・小百姓一九、隠居・名子・下人・庭屋・牛屋三九、男九一(うち名子九)・女六六、牛二一・馬一。正保郷帳では来崎くのさき郷に属し、田高二七四石余・畑高一五二石余で、新田が開かれ、茅山・柴山がある。天保郷帳では高七九〇石余。


中田村
なかだむら

[現在地名]いわき市錦町にしきまち

さめ川下流右岸にあり、北は大島おおしま村、北西は長子ながこ村、南は関田せきた村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から元和八年(一六二二)窪田藩領、貞享元年(一六八四)幕府領、延享三年(一七四六)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高七四〇石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高一千六九石余。正保郷帳では田方七九〇石余・畑方二七九石余。元禄郷帳では高一千一九七石余。


中田村
なかたむら

[現在地名]新和町中田

碇石いかりいし村の南に位置し、南端には東に宮地浦みやじうら湾、西に中田湾の入江がある。慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)に「中田浦船着北風ニ船弐拾艘程懸ル」と記され、天然の良港であった。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高一七〇石四斗余とある。壱町田組に属し、庄屋は大堂家。大堂家は天草郡内の有力庄屋の一人で、寛政八年(一七九六)の百姓相続方仕法施行の世話役である相続方掛庄屋に任命された(天草郡年表事録)。万治二年(一六五九)石高半減により九六石三斗余となった(天草風土考)


中田村
なかだむら

[現在地名]珠洲市若山町中田わかやままちなかだ

火宮ひみや村の南、若山川右岸に位置するが、田地は左岸の古蔵ふるくら村内にまで入組む。慶長一七年(一六一二)の前田利常黒印状(能登国古文書)に延武と並んで中田の名がみえ、若山郷について非分のことを申掛けてくる者がいても取合うべからずと命じられている。中田は元和六年(一六二〇)の若山組検地打渡状写(延武文書)にもみえ、肝煎扶持分七石五斗を与えられているが、すでに前田利家の代に扶持高一五俵を下付されており、延武と二人で頭肝煎として若山郷を管轄していた。


中田村
なかだむら

[現在地名]富山市南中田みなみなかだ

神通川と熊野くまの川の中間に位置し、北は任海とうみ村。富山藩領。万治三年(一六六〇)以降に押上おしあげ村から分村したというが、元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳に村名はみえない。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高三四〇石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高三四〇石余・定免三ツ五厘、新田高四石余・平均免五歩三厘余、小物成は塩野役九六匁・鮭川役一八匁余・鱒川役一匁余・鮎川役六匁余。


中田村
なかだむら

[現在地名]一色町池田いけだ

矢作古やはぎふる川の右岸にある。村名は、正長元年(一四二八)杉江伊太夫が天照皇大神の分霊を勧請して神明宮を造営し守護神としたが、屋敷が四方を田に囲まれていたことによるという(一色町誌)。寛正六年(一四六五)饗庭あえば城主石川妙鶴丸が「後の饗庭七郷」の一つとして三〇石の新田を築いている(幡豆郡誌)

明和四年(一七六七)旗本榊原氏支配の村高五六石三升、西尾藩領の村高四九七石三升七合(西尾市史)


中田村
なかだむら

[現在地名]豊田町中田

宮之一色みやのいつしき村より南に入る。村の南西部で池田いけだ川がぼうそう川に合流して南流する。宮之一色村古絵図(高橋家蔵)によると、同村南西から中田村にかけて川が流れ込み、大きな池が描かれている。古くは須賀村と称した(元禄郷帳)。正保郷帳には須賀村とみえ、幕府領、田方一三二石余・畑方三六石余。元禄郷帳では中田村として高二一九石余。


中田村
なかだむら

[現在地名]双葉町中田

西は鴻草こうのくさ村、南は長塚ながつか村に接する。元亨四年(一三二四)六月二日の関東下知状(相馬岡田雑文書)に「標葉郡内於中田□、□葉五郎四郎清直安堵御判」とみえ、執権北条高時は中田村を標葉五郎四郎清直に安堵している。標葉五郎四郎に関するその後の史料はないが、寺沢の仲禅てらざわのちゆうぜん寺の十一面観音の康永二年(一三四三)六月六日の胎内銘に五郎太郎・五郎二郎・五郎三郎の名がみえるが、関係は未詳。


中田村
なかたむら

[現在地名]森田村中田

北は浅田あさた村、田圃を隔てて東は漆館うるしたて村、南は玉川たまかわ(現北津軽郡鶴田町)、西は吉野よしの村。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて三二町一反四畝一〇歩、村高は二一五・一七一石であった。うち田方は二八町七畝二〇歩で二〇三・〇九四石、上田から下々田まで設定され、下田が一二町三反七畝二二歩、八六・六四石とあり、畑方は四町六畝二〇歩で一二・〇七七石、上畑から下々畑まで設定され、中畑が一町三畝一〇歩、下々畑一町八反二畝二歩とある。


中田村
なかたむら

[現在地名]八尾市中田一―五丁目・山本やまもとみなみ七丁目など

小坂合こざかい村の南に位置する。長瀬ながせ川と玉串たまくし川の間を流れる楠根くすね川に沿う河内の低地部の村。村中を八尾街道から分れた信貴しぎ道が通る。弥生時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡(中田遺跡)がある。若江郡に属し、村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で二三四石余、天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳では二四〇石余、うち六石余は改出し(新田)


中田村
なかだむら

[現在地名]柏崎市中田

東は上大かみおお新田、西は鯖石さばいし川を挟んで藤井ふじい村、南は平井ひらい村、北はつるぎ村。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「中田」とあり、伊勢御師の檀那が所在したと思われる。近世の支配は柏崎町に同じ。正保国絵図に高九二七石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では本田一千六二石七斗余・新田三ヵ所で計五八石四斗余。


中田村
なかだむら

[現在地名]岡山市賞田しようだ

脇田わいた村の南、たつくち山西方南部に位置する平地上に集落がある。寛永八年(一六三一)の検地帳(岡山市立中央図書館蔵)によれば田高二六〇石余(一三町一反余)・畑高一四〇石余(七町四反余)、屋敷筆数一四筆、名寄人数二九。「備陽記」では田畑二〇町二反余、家数一九・人数一二七。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高六一二石余、蔵入と家臣四人の給地。


中田村
なかたむら

[現在地名]豊田市中田町

市域で最西南端に位置し、逢妻女あいづまめ川に架かる中田橋の西にあたる。近世を通じて刈谷藩領。正保三年(一六四六)の反別は一九町五反である(碧海郡誌)

字池浦の八幡社は、正治元年(一一九九)の創建と伝える。毎年二月二三日の儺追なおい祭は俗に中田の裸祭ともいい、儺追人(芯男)に厄難を負わせて追払う神事である。


中田村
なかたむら

[現在地名]舞鶴市字中田・中田町

河辺かわなべ谷の西南端に位置する。河辺川の下流沖積地を耕地とする沿岸集落であるが、河口と離れているため湊としては開けず、農業を中心としてきた。古代・中世は志楽しらく(庄)の地と推測される。

慶長検地郷村帳に高一三四・九八石「中田村」とみえ、江戸後期の土目録でも高に変化はない。内訳は田方一〇五石余、畑方一〇石余(同書)。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚による農家戸数は一〇。


中田村
なかたむら

[現在地名]門前町中田

是清これきよ村の東、みなみ川中流北岸の河岸段丘に立地。垣内に天池あまいけ村・山岸やまぎし村があった。正保郷帳では高一四六石余、田方五町三反余・畑方四町四反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一五七石余、免四ツ八歩(能登奥両郡収納帳)


中田村
なかだむら

[現在地名]倉敷市中庄なかしよう 中田

別府べふ村の東、丘陵地の北側に位置する。寛永備中国絵図では高四一九石余、岡山藩領。以後幕末まで同藩領(「備中村鑑」など)。「備中村鑑」では高五七五石余。享保六年(一七二一)の田畠三八町五反余、家数三三・人数一八四、池三(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高四一九石余、田三二町二反余・畑六町四反余、直高五〇七石余で二四七石余が家老伊木豊後の給地、残りは蔵入、家数三六・人数一六六、牛一一、樋一八、井戸三一、池三、橋三六、野山約二四町。


中田村
なかたむら

[現在地名]新発田市中田町二―三丁目・みどり町二丁目・小舟こふね町二丁目・中田

新田にいだ村の北に位置し、中田川が流れる。新発田藩領で、慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)にみえ、高二一一石八斗。正保国絵図には九九石余とあり、元禄郷帳で一三七石五斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

グレーゾーン解消制度

個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...

グレーゾーン解消制度の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android