共同通信ニュース用語解説 「新選組」の解説
新選組
江戸幕府は1863(文久3)年、治安が悪化した京都へ赴く14代将軍徳川家茂の警護のため、浪士組を募って派遣。活動方針の変化から江戸へ戻る際、後に局長の近藤勇らが残留し、前身となる壬生浪士組を結成した。藩主松平容保が京都守護職を務めた会津藩の預かりとして
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
江戸幕府は1863(文久3)年、治安が悪化した京都へ赴く14代将軍徳川家茂の警護のため、浪士組を募って派遣。活動方針の変化から江戸へ戻る際、後に局長の近藤勇らが残留し、前身となる壬生浪士組を結成した。藩主松平容保が京都守護職を務めた会津藩の預かりとして
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
幕末期、江戸幕府が組織した浪士の武力団体。新撰組とも書く。幕府は、浪人の懐柔統制のため浪士組(248人)を組織し、上洛(じょうらく)する将軍徳川家茂(いえもち)の警衛として1863年(文久3)2月に江戸を出発させた。しかし上洛後、指導者の清河(きよかわ)八郎が尊攘(そんじょう)派と気脈を通じたため、幕府は彼らを東帰させた。このとき近藤勇(いさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)らは京に残留、京都守護職松平容保(かたもり)の支配下に属し新選組を結成し、京の治安維持に努めた。芹沢は近藤によって同年9月18日に暗殺され、以後近藤(組長)、土方歳三(ひじかたとしぞう)(副長)が実権を握り、尊攘・討幕派の弾圧に活躍した。64年(元治1)6月5日の池田屋事件は有名である。烈風の日に京都御所の上手に火を放ち、天機伺候(しこう)のため尹宮(いんのみや)(朝彦親王)、松平容保が参内するのを待ってこれを襲撃し、朝廷を長州に迎えようという尊攘派の大陰謀があったといい、これを察知した新選組が、三条小橋の旅館を襲撃して手柄をたてた事件である。このころの隊士は50人ぐらいで、65年(慶応1)ころの最盛期には総勢約200人であった。
池田屋事件以後、禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)、石蔵屋事件、膳所(ぜぜ)藩の獄、長州藩訊問(じんもん)使についての広島出張、三条橋高札事件などに活躍した。1864年11月に新選組に参加した伊東甲子太郎(きねたろう)一派は、67年3月に新選組を分離し高台寺(こうだいじ)党を結成した。しかし、11月に伊東は新選組に暗殺され高台寺党は解散した。
1868年1月3日の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは副長土方が指揮をとったが、幕軍とともに新選組も敗れた。残った隊士は江戸に帰り、3月1日に甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊を結成し近藤はその隊長となった。5日に甲州(山梨県)勝沼で官軍と戦ったが敗れ、その後、下総(しもうさ)(千葉県)流山(ながれやま)で近藤は捕らわれ、4月25日武蔵(むさし)(東京都)板橋で斬首(ざんしゅ)された。近藤は、市中見廻(みまわ)りは本来の任務ではなく、外夷(がいい)攘払の先駆けとなる考えをもっていたが、幕府には攘夷(じょうい)の意志がなく、幕末の尊攘派と公武合体派の渦巻く争いのなかにあって、初志にもかかわらず洛中の警備に終始した。土方は、宇都宮、会津若松と転戦し、1869年(明治2)5月11日に箱館(はこだて)で戦死した。
[小島政孝]
『平尾道雄著『新撰組史録』(1967・白竜社)』▽『子母沢寛著『新選組始末記』(1973・講談社)』
《〈和〉doctor+yellow》新幹線の区間を走行しながら線路状態などを点検する車両。監視カメラやレーザー式センサーを備え、時速250キロ以上で走行することができる。名称は、車体が黄色(イエロー)...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新