新撰組副長。武蔵国多摩郡石田村の土方隼人の四男に生まれる。近藤勇と同郷でともに天然理心流剣道近藤周助の門弟。江戸幕府が関東近在において剣術に心得ある者を徴募すると近藤らとともに応じ,1863年(文久3)春に上洛した。京都郊外壬生(みぶ)村に本陣を置き,清川八郎らの東帰後も京都に残り,京都守護職松平容保(かたもり)の下に新撰組結成に参加,尊攘討幕運動の警戒にあたる。初代組長芹沢鴨暗殺後,近藤が2代目組長になると副長となり,新撰組の組織強化につとめた。68年(明治1)鳥羽・伏見の戦には病気の近藤に代わって隊を指揮するが,敗れて江戸に逃れる。甲陽鎮撫隊と改称して甲州勝沼で官軍と戦って敗れ,下総の流山に屯集。近藤の捕縛後は幕府の主戦派に合流し,結城,宇都宮,会津などを転戦し,さらに仙台から箱館に逃れ,榎本武揚の指揮下で抗戦するが,翌69年5月五稜郭の戦争で流れ弾に当たり戦死した。
執筆者:高木 俊輔
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(釣洋一)
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幕末の新選組副長。武蔵国(むさしのくに)多摩郡石田村(東京都日野市)に土方義諄(ぎじゅん)の四男に生まれる。近藤勇(こんどういさみ)とともに新選組の実権を握り副長となった。1864年(元治1)の池田屋事件、禁門の変などで近藤を助けて働いた。1868年(慶応4)4月に下総(しもうさ)(千葉県)流山(ながれやま)で近藤と別れ、以後、宇都宮、今市(いまいち)、会津(あいづ)で官軍と戦った。仙台から榎本武揚(えのもとたけあき)の軍艦に同乗し、11月箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)を占領し陸軍奉行並(ぶぎょうなみ)となった。明治2年5月11日、箱館一本木で戦死。年35。墓は日野市石田の石田寺にある。
[小島政孝]
1835~69.5.11
新撰組副長。武蔵国多摩郡の農家に生まれ,散薬の行商のかたわら剣術を学び,江戸の天然理心流近藤周助の門弟となる。1863年(文久3)の将軍徳川家茂(いえもち)上洛にともなって組織された浪士隊に参加,京都に残留し,新撰組の結成に加わった。同郷の隊長近藤勇のもとで副長を勤めた。67年(慶応3)幕臣となり,戊辰(ぼしん)戦争では各地を転戦。69年(明治2)2月の箱館政権では陸軍奉行並に選ばれた。5月11日,五稜郭の戦闘で銃弾に倒れる。
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