日印平和条約 (にちいんへいわじょうやく)
第2次大戦の交戦状態を終結させるための日本,インド間の平和条約で,1952年6月9日東京で調印され,8月27日ニューデリーで批准書が交換されて発効した。大戦中インドはイギリスの統治下にありイギリス軍の一翼として日本軍と交戦し,日本降伏後は極東委員会,対日理事会,東京裁判の参加国となり,1947年8~9月の対日講和イギリス連邦会議(キャンベラ)にも加わった。インド政府は50年秋アメリカからいわゆる対日平和七原則に関する覚書を受け取ると日本の固有の領土保全という見地から批判的態度を示したが,51年8月23日,サンフランシスコ講和条約への招請を拒絶し,その理由として,沖縄などの信託統治付託および占領下での防衛条約の締結に反対し,台湾の中国への返還,千島,南樺太のソ連への編入を実現すべきであると主張した。条約調印当日,インドは二国間平和条約締結の意思のあることを日本に通告,翌年6月に実現をみた。日華平和条約に次いで対日賠償が放棄された点に特色がある。この条約は,通商航海条約締結までの暫定的措置としてあり,日印通商条約は58年2月に調印された(4月8日発効)。
執筆者:佐々木 隆爾
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日印平和条約
にちいんへいわじょうやく
1952年(昭和27)6月9日署名,8月27日発効した日本とインドとの平和条約。インドは米軍の継続駐留,沖縄などの信託統治付託などに反対し,51年のサンフランシスコ講和会議への参加を拒否。しかし会議直後から戦争状態終結の意思を表明し,52年4月28日に戦争状態終了を両国で確認した。在印日本財産の返還や対日請求権放棄など経済・通商関係を中心に規定している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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「日印平和条約」の意味・わかりやすい解説
日印平和条約【にちいんへいわじょうやく】
日本・インド間の第2次大戦における戦争状態を終了させた条約。1952年調印。サンフランシスコ講和条約草案に不満で,同条約に調印しなかったインドは,在インド日本財産の返還,賠償放棄など寛大な内容の日印平和条約を単独に結んだ。
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日印平和条約
にちいんへいわじょうやく
第二次世界大戦後,日本とインドとの間で結ばれた講和条約
1952年6月9日,東京で調印。インドはサンフランシスコ平和条約のアメリカによる沖縄の信託統治の原案に不満で講和会議に参加しなかったため,単独に平和条約を締結。インドは賠償請求権を放棄した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の日印平和条約の言及
【平和条約】より
…また,日本に関しては,[サンフランシスコ講和条約]が結ばれたが,これは,ソ連や中国などが参加しない,いわゆる片面講和であった。その後,インドとの間には1952年に日印平和条約が結ばれた。中国については,はじめ台湾との間に1952年に日華平和条約が結ばれたが,その効力は中華人民共和国には及ばず,72年の日中共同声明によって,後者との不正常な状態が終了するとともに,日華平和条約は効力を失い,78年には[日中平和友好条約]が結ばれた。…
※「日印平和条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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