日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本民謡」の意味・わかりやすい解説
日本民謡
にほんみんよう
近時、いわゆる民謡ブームにのってその隆盛と普及は目覚ましいが、日本民謡の概念については諸説がある。民謡ということば自体も第二次世界大戦後に定着したものであり、その概要を知るためには、まずその発生にさかのぼってみる必要がある。
[竹内 勉]
発生
日本の民謡は、今日のような娯楽本位の「うた」として発生したものではない。発生の当初は、原始未開民族における歌舞と同様に、歓喜の単純な叫び声や仕事の拍子をとる掛け声に素朴な節(ふし)をつけたものであったと思われる。日本の古代の原始農耕生活のなかで、自然は今日よりはるかに重要な意味をもっており、日照り、雨、洪水、鳥虫害などを免れるため神に祈願し、神を祝福し、その託宣を仰いだ。そうした神を中心とした信仰生活で、神に祈願を込めたり神の霊を慰めるためには、神と人間の仲立ちをする超能力をもつ人間、巫子(みこ)を必要とした。巫子は、人間のことばを神へ伝え、神のことばを人間に伝えるとき、神がかり的な感情の高ぶりから出ることばに自然に抑揚がつく。そのため「祝詞(のりと)」には声を長くしたり節をつけるようになった。これが民謡のそもそもの発生と考えられる。巫子を必要とするのは、年の改まる新年、人々が生産活動を始めるとき、収穫を神に感謝するときである。したがって、祝詞はつねに予祝と感謝という形で行われた。
こうした祈願は初め村単位で行われていたが、平安時代に村の再編成があり、それぞれの家でも祈願を行うようになると、巫子のなかには村々を回り、祝いをする家を求めて歩き、神との仲立ちをすることによって得た代価で生計をたてる、いわゆる祝福芸人となった者たちもいた。祝詞も、わかりやすく語る「語物(かたりもの)」と、抑揚に重点を置いた叙情的な「謡物(うたいもの)」の二つに分かれ、語物のほうはしだいに俗化して、山伏(やまぶし)が錫杖(しゃくじょう)で拍子をとりながらおもしろおかしく歌う「山伏歌祭文(うたざいもん)」となり、江戸初期には宗教を離れて、俗謡の歌祭文となっていった。謡物のうちあるものはのちに三味線と結び付いて、遊里の俗歌となった。
この語物と謡物の二つの系譜は、今日まで日本の民謡のなかに系脈を保っている。また古代、文字の発達普及につれて、歌う「うた」と詠(よ)む「うた」の分化が進み、歌う「うた」は音楽に、詠む「うた」は短歌や連歌(れんが)、俳句といった文学に、所作は舞踊として発達した。
社会が狩猟や漁労中心の生活から農耕社会へと移行するにつれて、原始的な生産労働、代掻(しろか)き、水かけ、田植、稲こき、粉ひき、草刈りなどに付随して、各種の労作唄(うた)が生まれた。
当時の農業の生産形態は、ユイ(結(ゆい))と称する「むら」を中心とした共同作業方式をとっていたので、労働に際しては互いに歩調をあわせる必要があり、そのためにも「うた」が歌われた。また稲作以外の種々の副業にもかならず「うた」が伴った。この時期においても信仰と労働とはきわめて密接な関係にあり、たとえば広島県の「囃田(はやしだ)」のように、田の神を迎えて豊作を予祝しながら行われる田植唄は、本来、信仰に基づく労作唄である。これら労作唄は「だれが(演唱者の職業)」「どこで(演唱の場所)」「なんのために(演唱目的)」「どのように身体を使って(演唱時の動作)」の四つの組合せから成り立っている。
元来労作唄であったものが、宗教的色彩が薄れ、作業の機械化に伴って作業が歌のテンポにあわなくなると、「うた」は労作の現場を離れて、三味線の伴奏をつけて座敷唄や酒盛り唄となっていった。もはや自然発生的な「うた」ではなく、座頭(ざとう)や瞽女(ごぜ)の歌祭文のように、プロフェッショナルな芸能者の手が加わったものへと変化していったのである。
農耕社会では、四季の運行もまたそれぞれに重要な意味をもっており、四季の始まりを祝って村を回る節季候(せきぞろ)も祝福芸人の一種である。その季節唄は、「春がきたとて鶯啼(うぐいすな)くが なぜに桜は色づかぬ」とか「秋がきたとて鹿(しか)さえ鳴くが なぜにもみじば色づかぬ」と春夏秋冬それぞれの季節を歌の冒頭に入れることによって、神に季節を確認させようとした。「大黒舞(だいこくまい)」「万歳(まんざい)」「春駒(はるこま)」「恵比須(えびす)回し」「俵積み」「鳥追い」なども祝福芸人であり、彼らは神をたたえる祝詞を唱えてやってくるので「祝人(ほぎびと)」とよばれた。それが訛(なま)ると「ホイド」となり、東北地方では乞食(こじき)をさしてホイドとよんだ。
祝福芸人とは別に、村々には互いに歌をもって掛け合う歌垣(うたがき)という風習があった。老若男女が山や川辺に集まって楽しく飲食したり歌い踊る季節行事で、これも単なる娯楽ではなく、作物の実りを予祝する意味をもっていた。
こうした季節唄は、山行き、田植、代掻きなど歌う場所が異なると、即興的に歌詞を入れ替えて歌ったり、歌い手によってリズムや節回しにも変化が生じて、季節唄が分化していく。さらに農業技術が進歩してくると、神への依存度は薄れ、それにつれて「うた」も神を対象とするものから人間を対象とするものに変化し、歌って楽しいもの、便利なものへと変化する。
こうしてある土地に発生し、ある目的で歌われていた「うた」はしだいに流動、伝播(でんぱ)して他の土地に影響を与えていく。
[竹内 勉]
定義
民謡という漢語は中国の宋(そう)代(5世紀)の文献にみえるが、日本では幕末まで用いられず、今日でいう意味にやや近く使われ始めたのは明治20年代からである。それも森鴎外(おうがい)や上田敏(びん)らの外国文学者によって、英語のfolk song、ドイツ語のVolksliedの訳語として用いられたにすぎない。一般には風俗(ふぞく)歌、俚歌(りか)、地方(ちほう)唄、田舎(いなか)唄、俗謡、俚謡などの呼称が用いられた。俚謡ということばには文化の遅れた田舎の「うた」というニュアンスが強く、明治中期の『俚歌俗謡』には「駕籠(かご)かき、馬丁(馬車曳(ひ)き)の放歌する鄙俚(ひり)の俗謡」とか、「娼妓(しょうぎ)の謡うわいせつな歌曲」といった表現がみられる。1906年(明治39)の志田義秀著『日本民謡概論』あたりから「民謡」の語が使われだし、昭和初期に柳田国男(やなぎたくにお)が「平民のみずから作り、みずから歌っている歌」(『民謡の今と昔』)と定義して、民俗学的見解を発表してから、ようやく正しい民謡研究が端緒につくようになった。それでも俚謡、民謡、俗謡などの語の区別はあいまいで、1914年(大正3)の文部省文芸委員会編集の『俚謡集』は、こうした民俗学者のいう「うた」を民謡とし、俗謡は芸能者の手によって洗練された形になったものをさすとしているが、もともと厳密な定義はなかったといえる。
中国の『詩経』に「曲ノ楽ニ合スルヲ歌トイヒ、徒歌ヲ謡トイフ」とあり、楽器にあわせて歌うのが歌、肉声だけで楽器伴奏なしで歌われるものを謡としている。すなわち、民謡は本来が無伴奏で歌われる素朴な「うた」を意味している。こうした民謡の条件としては、〔1〕田舎の一定地域に住む人たちによって、〔2〕ものを生産する際に、〔3〕機械以前の道具と身体を使って、〔4〕集団のなかで、〔5〕自然発生的に歌われ、〔6〕作詩作曲者は不明もしくは判明していても問題にされず、〔7〕何世代にもわたって口から耳へ模倣され伝承されてきたこと、などがあげられる。
このように民謡は民衆の創造力のエネルギー源であり、その地方の方言詩ともいうべきもので、土のにおいをもつ郷土性の豊かなものであったが、昭和になって民謡が娯楽として一般に愛唱されるようになると、三味線、太鼓、尺八などの伴奏をつけて、花柳界のお座敷唄(俗曲)やはやり唄、遊芸人の唄なども歌われるようになり、これらをもまた民謡とよぶようになった。そして、もとの郷土に根ざした自然発生的な本来の民謡を伝承民謡、節回しを原調といって区別するようになった。
[竹内 勉]
分類
民謡の分類にも諸説がある。藤田徳太郎は門付(かどづけ)歌、労作歌、酒宴歌、神事歌、踊歌、童謡の6種(『歌謡文学』)に大別し、柳田国男は歌う場所、目的によって次の10項目に分けている。(1)田歌 畠(はたけ)歌も含む。田打唄、田植唄、草取唄、稲刈唄など。(2)庭歌 屋敷内の作業場での仕事に伴うもの。稲扱(いねこき)唄、麦打唄、稗搗(ひえつき)唄、麦搗(むぎつき)唄、臼摺(うすすり)唄、粉挽(こなひき)唄、味噌搗(みそつき)唄、糸引(いとひき)唄、地搗(じつき)唄など。(3)山歌 山林原野に出て歌うもの。山行唄、草刈唄、木おろし唄、杣(そま)唄、茶山節(ぶし)など。(4)海歌 水上の生活、水産一般の作業に伴うもの。船卸(ふなおろし)唄、潮替(しおかえ)節、網曳(ひき)唄、海苔採(のりとり)節など。(5)業(わざ)歌 ある職業に携わる人だけの歌うもの。大工唄、木挽(こびき)唄、綿打(わたうち)唄、酒屋唄、油絞(あぶらしぼり)唄、たたら踏(ふみ)唄など。(6)道歌 馬子(まご)唄、牛方唄(牛追唄)、木遣(きやり)唄(木遣音頭(おんど))、道中唄など。(7)祝歌(ほぎうた) 座敷唄、嫁入唄、酒盛り唄、物吉(ものよし)唄など。(8)祭歌 宮入唄、神迎(かみむかえ)唄、神送唄など。(9)遊(あそび)歌 田遊(たあそび)唄、鳥追(とりおい)唄、正月様、盆唄、踊唄(盆踊り、雨乞(あまごい)踊り)など。(10)童(わらべ)歌 子守唄(眠らせ唄、遊ばせ唄)、手毬(てまり)唄、御手玉唄など。
また町田佳聲(かしょう)は、(イ)第一次産業時代の素朴な祝儀唄、仕事唄、(ロ)前記イが娯楽化したもの、(ハ)座敷唄やステージ用の唄、と大きく分け、さらに『日本民謡集』(岩波文庫)のなかで、柳田案を骨子として産業別に細分した次のような分類案を示している。(A)農業に関する唄 山唄、田唄、庭唄など。(B)農産加工品に関する仕事唄 糸紡ぎ唄、紙漉(すき)唄など。(C)園芸用農作物に関する唄 蜜柑取(みかんとり)唄、柿(かき)皮剥(む)き唄など。(D)水産業に関する唄 地曳網(じびきあみ)唄、網起し唄など。(E)林産業に関する唄 杣唄、炭焼唄など。(F)牧畜に関する唄 牛追唄、馬追唄など。(G)鉱業に関する唄 石切唄、採炭節。(H)建築土木に関する唄 土搗(どつき)唄、木遣唄など。(I)交通に関する唄 長持唄、筏(いかだ)流し唄など。(J)雑 草津湯もみ唄など。(K)祝儀唄 神仏、年中行事、婚礼祝い唄など。(L)踊唄 盆踊り、豊年踊りなどの唄。
今日、日本列島に広く分布する現存民謡は2万曲、3万曲とも、1県平均700曲ともいわれるが、それらの民謡を「うた」の発生からみて、「うた」の目的と動作の双方から「うた」のもつ性格を考えると、いままでのような、場所分類、目的分類、伝承者分類(業歌)、大小人分類(童歌)の四つを同一次元で扱うのは誤解を招きやすい。そこで一つの試案として、神に対する祈願・祝福から生まれた対神用の「うた」(
)と、人が人に語りかける対人(たいひと)用の「うた」( )とに大別し、それをさらに分けてみた。[竹内 勉]
伝播と変遷
現行の日本の民謡は、神事唄のなかには室町時代にさかのぼるものもあるが、大部分がいわゆる酒盛り唄に属し、それも江戸時代の労作唄から転用されたものが多い。民謡の発達史からみると、原始産業時代に生まれた生活の唄も、歌い手の上手・下手から、聞かせる者と聞く側に分かれ、信仰とはかかわりなく、歌の娯楽性が問題とされるようになった。古くは、祭りの日や祝いの日の酒席に、主人自ら客へのもてなしに歌い舞うしきたりがあったが、時代が下るにしたがって、酌人や歌妓(かぎ)の類が新たに登場してくる。
歌詞も575、5575、7775といった小唄形式や、75または77を連続する口説(くどき)形式のように一定の形に定着してくると、替え歌も自由になり、都会での流行唄の転用も行われた。これと前後して三味線が伴奏楽器として登場する。
三味線は室町末期の1562年(永禄5)に琉球(りゅうきゅう)を経て堺津(さかいつ)(大阪府堺市)に渡来した三線(さんしん)から発達したものといわれている。三味線は瞽女とよばれた盲目の女芸人たちが歌い流した祭文の伴奏などに使われていたが、歌曲の伴奏に適していたので、江戸初期から人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)はもとより、遊里や酒席の酒盛り唄に使われて普及し、盆踊りなどにも使われるようになった。
元禄(げんろく)年間(1688~1704)になると商品経済が発達し、町人階級が台頭して、江戸、京都、大坂などの大都会にはやり唄が生まれ、それらは門付(かどづけ)芸人、行商人、出稼ぎ労働者や旅行者によって地方へ伝わっていった。江戸・日本橋を起点に東海道、中山道(なかせんどう)、日光街道、甲州街道、奥州街道の五街道が整備され、それらの脇(わき)街道も開かれ、これが伝播の経路となる。各街道には宿場ができたが、徒歩による陸上交通は多くの時間を要し、それぞれの歌が緩やかに西へ東へ、人の口から口へ伝えられていった。
この不便な陸上交通より、海上交通つまり船旅のほうがはるかに速かった。ことに瀬戸内航路と日本海航路は物資輸送の大動脈で、それに伴って北海道、東北地方と上方(かみがた)、九州の間に歌の交流が行われた。九州西岸の騒ぎ唄『ハイヤ節』が『佐渡おけさ』や『庄内(しょうない)はえや節』を生み、『出雲(いずも)節』が秋田船川港の『船方(ふなかた)節』に影響するなどの現象は、いずれも日本海海運の主力となった「北前船(きたまえぶね)」の船乗りたちによるものである。また北海道の代表的な民謡『江差追分(えさしおいわけ)』は、信州浅間山麓(さんろく)のお座敷唄『信濃(しなの)追分』が越後(えちご)に伝わり、のち海路北上して北海道に入ったのは天保(てんぽう)(1830~44)のころという。
各城下町は消費都市としての性格を強め、その周辺で生産の増大を必要としたので、過剰人口の農漁村からは閑期を利用して他地方へ出稼ぎに出る者が増えた。製茶、酒造、土木工事、漆掻き、木挽(こびき)などの出稼ぎ者が故郷の唄を出稼ぎ先に伝え、別の仕事唄に転用した例は少なくない。反対に、旅先で覚えた他国の唄を持ち帰ることもあった。伊勢(いせ)参りを終えた人々が古市(ふるいち)の遊廓(ゆうかく)で覚えた『伊勢音頭』は、全国各地に移入された。四国、九州の盆踊唄のなかには「ヤートコセ ヨーイヤナ」という『伊勢音頭』の囃子詞(はやしことば)をつけたものがみられる。
門付の遊芸人たちも伝播者の役割を果たした。藩政時代、越後地方の盲目の女芸人越後瞽女は、上敷き用の薄いふとんと三味線を背負い、数人の集団で町から村へ門付して歩き、あるいは瞽女宿とよばれる民家で芸を披露した。演目のなかには『おけさ』や『新保(しんぽ)広大寺』などがあり、後者は関東の『八木(やぎ)節』や東北の『津軽じょんがら節』に影響を与えた。このほかの遊芸人には「大黒舞」「万歳」「春駒」などを広めた祝福芸人や、鉦(かね)・太鼓にあわせて『二上(あが)り伊勢音頭』を広めた願人(がんにん)坊主がある。
明治に入ると、西洋文明の移入と産業の機械化によって民謡のあるものは姿を消し、娯楽性の濃い盆踊唄や酒盛り唄、そして機械化に関係のない祝い事の唄だけが残るようになった。こうした状態で、民謡保存の名のもとに東の『江差追分』、西の『安来(やすぎ)節』が舞台芸化され、また『磯(いそ)節』『博多(はかた)節』『名古屋甚句(じんく)』『三階節』など、花柳界の座敷唄がレコード化された。
1925年(大正14)3月22日に本放送を開始した今日のNHKは、番組に俚謡を取り上げ、それと期を同じくして、詩人や作曲家による新民謡運動がおこった。東北地方からは後藤桃水(とうすい)、小玉暁村(ぎょうそん)、堀内秀之進、成田雲竹(うんちく)らの先覚者が旧来の東北の「うた」を当世風に手直しすることで、この新民謡運動に参加した。後藤桃水は1919年に東京・神田で「追分」を歌う会を開き、その後「大日本民謡研究会」を主宰したが、これが、民謡界の人々が自ら「民謡」ということばを使った初めである。35年(昭和10)前後より音楽研究者の手で民謡の採譜が行われ、第二次世界大戦後にはこれが五線譜化されて、民謡保存運動も本格的に進められた。
1946年(昭和21)1月からNHKは「のど自慢素人(しろうと)音楽会」で素人にもマイクを開放し、参加者が公然と舞台に立って歌うという新しい試みは、民謡ブームに拍車をかけることになった。敗戦によって日本人の価値観も変わり、「炭坑へ送る夕(ゆうべ)」「農家へ送る夕」などの番組で、それまで政治・文化とは無縁とされてきた炭坑や農村が脚光を浴び、『北九州炭坑節』『常磐(じょうばん)炭坑節』『北海盆唄』などが電波にのって日本中に広まった。52年からNHKの伝承民謡を中心とする「民謡をたずねて」という定時番組も誕生し、民謡ということばは一般の間に定着した。
伝承民謡のほかに、大正末期から昭和一桁(けた)代に創作民謡が盛んにつくられた。『チャッキリ節』は1927年(昭和2)、『十日町小唄』は29年につくられ、人々に愛唱された。創作民謡あるいは新民謡とよばれるものは、民俗学的研究の対象とはならぬとはいえ、旧来の民謡と同様に日本人に受け入れられ歌われているものは、やはり民謡のジャンルに入れてしかるべきかもしれない。
第二次大戦後はレコードやラジオ、テレビなどマスコミの力で日本中に普及したものが少なくない。『ソーラン節』『秋田音頭』『ドンパン節』『会津磐梯山(あいづばんだいさん)』『八木節』『木曽(きそ)節』『五木(いつき)の子守唄』『中国地方の子守唄』など枚挙にいとまがない。近年は各地に民謡教室ができ、カラオケブームにのってコンクールも盛んに行われるなど、まさに民謡花盛りの観がある。民謡は長い年月の間に流動し伝播し、各地に現存するもののなかでも、もはやかつてあった形を失ってしまったものが多い。しかしある土地に発生し、ある目的をもって歌い継がれてきたものが、他の土地に伝わってそこにさまざまな影響を与えていくことが繰り返され、それによって今日の民謡が存在するといえる。それらのなかで何が残り、あるいは新しく生まれ、また変形していくか、民謡の歴史が示すように、現代人の嗜好(しこう)がその将来を決めるであろう。
[竹内 勉]
『竹内勉著『民謡――その発生と変遷』(1981・角川書店)』▽『仲井幸二郎・三隅治雄他編著『日本民謡辞典』(1972・東京堂出版)』▽『浅野建二編『日本民謡大事典』(1983・雄山閣出版)』▽『園部三郎著『日本民衆歌謡史考』(1980・朝日新聞社)』▽『町田嘉章・浅野建二編『日本民謡集』(岩波文庫)』▽『服部龍太郎編著『日本民謡全集』全七巻(角川文庫)』▽『NHK編『日本民謡大観』関東篇(1944)、東北篇(1952)、中部篇〈北陸地方〉(1955)、中部篇〈中央高地・東海地方〉(1960)、近畿篇(1966)、中国篇(1969)、四国篇(1973)、九州篇〈北部〉(1977)、九州篇〈南部〉(1980・日本放送出版協会)』