改訂新版 世界大百科事典 「もてなし」の意味・わかりやすい解説
もてなし
客人に飲食や宿舎を与えてもてなす風習はほとんどあらゆる社会にみられるが,国家の権威が人心にいまだ十分浸透していない段階では,こうしたもてなしは,近代社会における場合とは比較にならぬほど大きな意義をもっている。
まず,そのような社会では,訪れる客のもてなしは個人の自由裁量にゆだねられるものではなく,一般に家や親族集団を単位として行われる社会的義務とみなされている。ホメロスの《イーリアス》の中に,敵対する2人の戦士が,互いの先祖がもてなしによって結ばれた関係にあることを知ると,ただちに戦いをやめるという有名なエピソードがあるが(詳しくは後述),それなどはホメロスの時代のギリシアにおいて,もてなしの紐帯(ちゆうたい)が〈相続〉されるものであったことを物語るものであろう。シンボルsymbolという今日では象徴一般を意味する語は,そのもとをたどれば古代ギリシア語のシュンボロンsymbolonであり,これはもてなしによって結ばれた紐帯の〈しるし〉として主人が客人に与えた指輪や硬貨の半片を指したといわれるが,そのような〈シンボル〉も家系をたどって子孫に伝えられたのである。
また,飲食,宿舎,衣類など,客に分け与えられるもののうち,とくに飲物と食物はもてなしにとって本質的な意義をもっている。というのも,同一物質を体内に摂取するという〈共飲共食〉の行為をとおして初めて,主人と客人の間に断ちがたい連帯のきずなが生まれると考えられるからである。イスラム化以前のアラブ社会など,一部の社会で行われたといわれる,家の女性を客人に添い寝させる〈性的歓待sexual hospitality〉の風習も,性行為を通じて客人の体液を摂取するというところに儀礼的意味があったのだろうと思われる。
このようなもてなしは,客が主人と同じ共同体の成員であるか否かによって,その意義をまったく異にする。共同体内の,広義の隣人に対するもてなしは,時間的ずれはあるにしても,相互的に,互酬的原理(互酬)に従って行われるのがふつうである。そのため,共同体内にあって,一方的に飲食などの供与を受ける貧者は一人前の隣人とは認められず,いわば共同体内部の〈異人stranger〉という地位を占めることが多い。国家による福祉制度が確立する以前には,富者や宗教団体などによるこうした施しの原理がその役割を果たしていたわけであるが,そこでは与える側もまた,その行為を通じて社会的威信を高め,また贖罪(しよくざい)するとか,功徳を施すとかいった宗教的充足感を得ることができた。
共同体の外部から訪れる客に対するもてなしはいっそう重要である。実際,日本語の〈もてなし〉に相当する英語の〈ホスピタリティhospitality〉という言葉は,ふつうこちらを意味している。hospitalityという言葉は,語源的にはラテン語のhospitalitasを経てさらに同じくラテン語のhospesにさかのぼることができるが,このhospesという言葉は,本来,客と同時に異人を表し,さらにその類義語であるhostisは異人と同時に敵を意味した。古代語のこのように多義的な意味連関は,外部の世界からやってくる異人の地位を如実に示すものである。異人は,共同体の秩序の外部にあるということそのものによって,うかがい知れぬ力と属性をそなえた存在とみなされる。日本の民俗に〈まれびと〉を遠来の神とみる信仰があるように,来訪した異人を神と同一視する社会も少なくない。
異人はこのように,共同体の日常的秩序の外にあるうかがい知れぬ存在であり,それゆえにまた,潜在的にはおそるべき敵でもある。異人を迎えて,しばしばまず力競べなどの模擬戦が行われたり,攻撃的なあいさつがみられるのは,異人のもつそのような性格と関係するものだろう。ニュージーランドのマオリ族は,身分の高い客が訪れると舌を突き出してあいさつするが,それは相手のもつ〈マナ(霊力)〉をおそれて威嚇する身ぶりが儀礼化したものである。
そして,異人はおそるべき潜在敵であるがゆえに,歓待すべき客人でもある。歓待することによって客として共同体にとりこむのである。こうして異人歓待のためにさかんな饗宴がはられ,またしばしば贈物の交換もなされる。こうして客となった異人は,主人の権威を侵害しないかぎり,共同体の内部で主人の保護をうけることができる。すなわち,もてなしの義務は異郷における安全を相互に保証するものでもある。
一般に,近代の公法が成立する以前には,宗教的・倫理的義務と考えられたこうしたもてなしの慣習が,地縁的あるいは血縁的共同体とその外部の社会との関係を支えていたといえる。
→宴会 →贈物
執筆者:野村 雅一
日本
中世
〈もてなし〉の本来の語義は,相手をだいじに扱う,面倒をみる,たいせつに待遇すること,またそうした人に対するふるまい方を意味するが,転じて饗応,馳走(ちそう)を意味するようになる。饗応の意で広く使われるようになるのは,尾張国熱田社の神官が性蓮という僧を〈請じ寄せて,さまざまにもてなし,馬・鞍・用途など沙汰して,高野へ〉送った(《沙石集》)とか,若狭国太良荘(たらのしよう)の預所が六波羅の小奉行を招待して〈もてなし申〉(《東寺百合文書》),引出物に用途1結,厚紙10帖を贈ったなどの用例にみられるように,鎌倉中期以降のことであった。《日葡辞書》は〈人を招待などして,手あつく待遇する〉と釈している。
このように相手を招いて宴会を催し,酒食を供したうえで,引出物を贈るもてなしは,公家・武家を通じ,大饗や埦飯(おうばん)などさまざまな形で行われ,饗応してもてなす側は,共食,贈与を通じて相手との人間関係を強めることを目的としていた。中世の荘園,公領では,現地に下向してくる預所,地頭,その代官,検注・内検・勧農・収納などの使に対し,三日厨(みつかくりや)をはじめとするもてなしをするのが荘官,百姓の義務であり,公事(くじ)とされていた。これは来訪神,貴人に対する古くからのもてなしの習俗を根底にもっているものと思われる。しかし1227年(安貞1)周防国多仁荘の預所代官が傀儡師(くぐつし)をはじめとする多くの人数を引きつれて下向し,吉書饗,乗船饗などに莫大な饗膳を要求,本来は〈一任一度〉であるはずの三日厨とその引出物を,毎年下向するごとに求めたとして,百姓等に訴えられ(〈九条家冊子本中右記紙背文書〉),1275年(建治1)紀伊国阿氐河(あてがわ)荘に,地頭の一族が20余人の多人数で訪れ,3日間,また10日もたたぬうちに2日間と,百姓の家にいてそのもてなしを要求し,供餉(饗膳)200膳を責め取ったといわれているように(《高野山文書》),鎌倉時代,預所や地頭の代官は,このもてなしの慣習を盾にとって,しばしば百姓の饗応を強要した。室町時代も同様で,1400年(応永7)若狭国汲部(つるべ)・多烏(たがらす)浦百姓等は,貝,蚫,磯物を召す使いが数日間逗留,〈西の京〉の時衆が数十日滞在,雑事(ぞうじ),厨を責めただけでなく,〈客人のもてなしの分〉まで百姓に要求すると訴えているのである(〈秦文書〉)。このように,過大なもてなしを百姓等は拒否するとともに,逆に1334年(建武1)若狭国太良荘百姓等が正月節会の酒を地頭代に対し当然の権利として求めたように(《東寺百合文書》),百姓等も節会などの際の地頭代のもてなしを要求している。荘園,公領の支配者と百姓との関係がこうしたもてなしの根強い慣習によって裏づけられていたことに注目しておく必要がある。
また訴訟にあたって,担当の奉行を招き,饗応し,引出物を贈ることも,前掲の太良荘預所による六波羅探題の奉行のもてなしにみられるように,鎌倉時代後期以降はふつうのことになっていた。当事者はそれによって奉行との人間関係を強め,訴訟を有利に導びこうとしたのであるが,この費用は〈沙汰用途(訴訟費用)〉の一部とされ,やがて室町時代になると,幕府の賦課する段銭(たんせん)の免除などのための訴訟にあたって,荘園支配者が奉行をもてなす費用は一献料(いつこんりよう),酒肴料(しゆこうりよう)といわれ,百姓がその半分を負担するのが慣行化し,奉行もその収入を当然のこととして期待するようになっていく。訴論人の主張の対決よりも,こうしたもてなしによる訴訟の解決方法が一般化した点にも,日本の社会におけるもてなしの慣習の根深さがうかがわれる。
さらに,このような酒肴料は1302年(乾元1)太良荘の百姓国友が助国名名主職に補任(ぶにん)されるにあたって,酒肴料11貫文を東寺に進め,55年(正平10・文和4)同荘預所職を請け負うにあたって,源秀が酒肴料2貫文を出しているように,荘園,公領の所職補任にあたっても,しばしば見いだされる。これは任料ともいわれているが,所職への補任を望む人の補任権者に対するもてなしの変形とみることができるので,その多少によって補任が左右されることも大いにありえたのであり,補任権者(荘園,公領の支配者)もまた,その収入を期待していたのである。
これらは賄賂(わいろ)となんら変わるところはないといってよかろうが,自立救済を基本としていた中世社会,とくに室町時代の社会はこうしたもてなし,酒肴料,一献料等の授受はまったく当然のこととして行われた。もとよりその過度な要求には強い反発があったが,そのこと自体については,法的,社会的な制裁・批判を受けることもなかったといってよい。
執筆者:網野 善彦
近世
もてなしということばの用例は近世にもあるが,もっと一般的なことばは〈ふるまい〉であった。元来もてなしと同様に広く挙動を指すことばであったふるまいは,とくに酒食提供を意味することばとなり,さらにこれがもてなしの中心と表現された。17世紀の笑話集《昨日は今日の物語》には,山家から来た婿が〈さまざまのふるまい〉を受けた礼状に〈色々の御もてなし,ことに夜もすがら切麦御ふる舞〉と書こうとして,切麦を知らずに,そこに誤まって給仕女の名を書いた話がある。同書には,使い先でふるまいにあった使者に献立を尋ねる話もあり,《貞丈雑記》は,古来の埦飯(おうばん)を〈今世俗に振舞と云〉と説明する。ただし,酒食の機会が,すべてふるまいやもてなしであったのではない。正月に分家等に酒食をふるまう埦飯行事は,武家のほか,町人や有力農民にみられたが,18~19世紀における衰退が注意されるのは,主客の別なく,めいめいの持ち寄りでの酒食の流行によるものであった。だが,もてなしの場は,近世の諸階層にとって重要な関心事であり,またその厚薄は,酒食以外の要件をも大きく含んでいた。
徳川将軍家にとって,毎年3月,京都から年賀に来る公家のもてなしは,政権の重要行事であった。馳走役の大名は,1791年(寛政3)の改革までは,その経費をも負担し,軍役の発動がほぼ絶えたこの時代,大名はこの種のもてなし役を将軍家への重要な職掌の一つとした。1701年(元禄14)この役を帯びた浅野内匠頭の刃傷一件は,もてなし役習熟能力が一藩の運命を左右した例を示す。当時将軍綱吉は,しばしば江戸の大名家を訪問したが,大名家にとって,この際のもてなしも,ときに藩財政に大きく響くほどの重要事であった。同じころ成立した《日本永代蔵》は,町人世界で,数人の訪客が,主人が出すはずの食事の内容を推測し合うのを〈必ずいふ事にしてをかし〉とする。かなりの農民の家でも,同様に来客へのもてなしぶりは,他人の批評を受けたはずであった。
幕府の饗応の式は,四条家園部流によったというが,主人のもつ能力のすべてを提供するのがあついもてなしと考えられたから,酒食のほか,さまざまな儀礼,物,労力が,もてなしの内容となった。主人の客への出迎えと見送り,その場所(ときに供を派しての案内),その際の衣装,口上(こうじよう)。客の主家への特別の入口と座席。茶,菓子,酒食,タバコ等の質,量やその容器調度類。その場の設備,すなわち清掃,暖房,照明,配置される書画,生花や香,また作庭等。その際の相伴人(しようばんにん),給仕人,その衣装と口上と挙動,ときに性のサービス。珍蔵物の披露や能楽,謡,諸楽器,相撲等の催し,ときに主人みずからのそれ。引出物。また入湯や寝所の設備が大きな要件となることもあり,一般に客人の供衆への接待も,もてなしの厚薄にかかわる。
これらの効果は,場面に応じて多様であり,ときには,たとえばいろりに投ぜられる木が最大のもてなしにもなるが,一般には,この諸分野の多くに格式が整い,諸階層とも,その作法への習熟が求められた。格式化は,茶花等で著しいほか,近世に登場したタバコさえ,煙草盆の出し方,きせるの回し方などに煙草道とも呼べるようなものを成立させたほどである。客との社会的関係に応じて,諸階層ごとに生まれたはずのもてなしの作法は,より高い層のもてなしぶりを模していく。一般的な生活向上のほか,大名家や有力町人の饗応に列した者が,村有力者を招き,村有力者が一般村民を招くという機会もあり,もてなしぶりの情報は広がりやすかった。19世紀に入るころから,生花や書画等,都市富裕層の文化が農村に波及し,また都市文化と農山漁村文化との上下格差感覚が強まるのは,この種のもてなしぶりの広がりによるところが大きい。幕府,諸藩の倹約令や,村での申合せ,家訓等にも,もてなしの向上,とくにふるまいの膳の豪華化を抑える意図がよくみられるが,一般にはその意図は達成されにくかった。
招かれざる客へのもてなしもあった。1648年(慶安1)の江戸町触(まちぶれ)は,町人祝言ふるまい等のとき〈乞食共参,何かと申〉のは,なぐって番所へ届けよとするが,婚礼,法事等に集まる見知らぬ者への接待の例が一般的だったことが,この背景にあろう。有力農民の家は,しばしば旅の職人,芸人や流浪民に一宿一飯をふるまったが,御蔭参りやお礼降りの際には,未知の者へのふるまいは,もっと一般化した。打毀(うちこわし)を伴う百姓一揆が,打毀対象とおぼしい家で酒食の提供を受ける例を,このような例との連続性で考えることもできる。
執筆者:塚本 学
民俗
もてなすことを〈客をする〉ともいう。現在では訪問者を等しく客と称するが,客の古語にあたる〈まろうど〉とはまれに来る人の意であり,めったに来訪しない貴い賓客のことであった。ただ今日でも客には実質的に単に訪れて来る者と招かれて来る者の別があり,さらにその社会的地位や親疎の関係などによってもてなしの方法には差異がある。冠婚葬祭などの正規の招待客の場合,座敷や客間へ通すが,改まった客でないときにはいろり端や茶の間で,また見知らぬ来訪者やちょっとした用の者は履物のまま玄関や縁側でといったように,客の種類によって応対の場も異なる。正規の客のもてなしは饗応とくに酒のふるまいがつきものであるが,その他の場合でも日本では簡単な茶菓を供するのが客への礼儀とされ,〈お茶も出さない〉とは無礼な行いとみなされる。玄関の客が腰掛けて茶菓でもてなされる様は日本独自の習慣といえる。これは〈ひとつ釜の飯を食った〉という表現もあるように,同じ火で調理した物を食べ合うと互いの心身の結合が強まるとみる日本人の共食の観念に基づいている。この接待の食事が形式化したものに年始客の食摘みがある。今日では三方(さんぼう)に米,熨斗鮑(のしあわび),勝栗などをあしらった蓬萊飾りは,玄関や床の間に置かれ正月の装飾品とみられがちであるが,たとえば新潟県北部ではこれをお手掛けと呼び,次々と訪れる年始回りの客は〈お手掛けくだされ〉と差し出されたこの三方を,右手を上にして目の上まで頂くまねをする習慣が残っている。こうした共食の観念のほかに,日本人の客を丁重にもてなす行いは,〈まれびと〉をさながら遠方から来訪する神の化現のようにみなす外者歓待の伝統ともかかわっていると解されている。四国の遍路に一夜の宿を与えてもてなす善根宿(接待宿)の慣習,旅修業の職人等への一宿一飯の制のほか,鹿児島の大隅地方には霜月の大師講に必ず旅の者を強いて家に迎えて饗応する習慣があったが,これらには人をもてなし施すことによって余慶が得られるとする観念が潜んでいる。今日みる企業の巨額にのぼる接待費などもこうした伝統的なもてなしの作法や意識とまったく無関係ではない。
執筆者:岩本 通弥
中国
中国では,古代よりすでに賓客の接待のあり方が儀礼として様式化されていた(礼)。周代の理想的な制度を体系的に再現した《周礼(しゆらい)》春官・大宗伯に,〈賓礼をもって邦国を親しましむ〉〈饗燕(きようえん)の礼をもって四方の賓客を親しましむ〉といった記述がみえる。また,その名も《儀礼(ぎらい)》という古礼を集大成した書物には,人と初めて会うときの相見礼,村落共同体の酒盛りである郷飲酒礼,群臣の功労をねぎらって開かれる燕礼,外交儀礼である聘礼(へいれい),覲礼(きんれい)などに関する作法が書かれている。また,《儀礼》《周礼》とともに古礼のトリオ(三礼)をなす《礼記(らいき)》には,ご飯は客人の左に置き汁は右に置く(曲礼(きよくらい)篇)とか,宴席では犬に骨を投げ与えてはならない(同)などといった,いっそうこまごまとして具体的な作法が記されている。ただ,これら礼書の記述は,おおむね公的な宴会にかかわるものであり,また,作法はかくあるべしと述べているだけであって,実際に客人が日常の場でどのようにもてなされたか,という問いには答えてくれない。次に,比較的名高い事例を古書から拾ってみよう。
《論語》微子篇にこういう話が記載されている。孔子の弟子の子路が,旅する孔子の一行にはぐれたときのこと,偶然出会った老人にうちの先生を見かけなかったかと尋ねる。くだんの老人(実は隠者)はひとしきり肉体労働のたいせつさを説いて孔子を批判したのち,子路を自分の家に泊めてやる。その夜,老人は子路のために鶏をつぶし黍(きび)ご飯をつくってやり,自分の2人の息子を子路に引き会わせ,一家をあげて彼を歓待したという。宋代の百科全書《太平御覧(たいへいぎよらん)》賓客の項に引く《列女伝》によれば,有事に備えて食客3000人を養っていた孟嘗君(もうしようくん)は,彼らを3段階にランクづけ,食事のときになると,上客には肉,中客には魚,下客には野菜をあてがったといわれる。漢の宰相公孫弘は〈客館〉をつくって賢人を招き,彼らを自分のブレーンとして厚遇したが,自分自身は肉ひときれと粟(あわ)飯に甘んじた(《漢書》公孫弘伝)。晋の石崇(せきすう)は客を招いて宴会を開くたびに美女にお酌をさせたが,客のなかに酒を飲みほさない者がいると,お酌をした美女を情け容赦もなく斬殺した(《世説新語》汰侈篇)。また,彼の廁(かわや)にはいつもきれいに着飾った腰元が10人余りも控えており,香料のたぐいも備えられ,豪華なことこのうえもなかった。そのうえ,客が用をたすと腰元が新しい着物に着替えさせてくれるので,客は恥ずかしがってだれも廁に行こうとしなかったという(同)。唐の杜甫の詩《衛八処士に贈る》は,こうした政治家や豪族とは異なる,ごくふつうの市井人のもてなし様をかいま見せてくれる。20年ぶりに再会した衛某の友情を杜甫は次のように歌う。〈昔別れしとき,君いまだ婚せざりしに,男女たちまち行を成し(ずらりと子どもたちが並び),怡然(いぜん)として(にこやかに)父の執(とも)を敬い,我に問う,何(いず)れの方より来たるかと。問答いまだ已(や)むに及ばざるに,児を駆って酒漿(しゆしよう)を羅(つら)ぬ。夜雨に春の韮(にら)を剪(き)り,新炊(新たに炊いたご飯)に黄粱を間(まじ)う。主は会面の難きを称し,一挙に十觴(しよう)を累(かさ)ぬ。十觴もまた酔わず,子が故意の長き(変わらぬ君の友情)に感ず〉。いずれにしても中国のもてなしは,今日でも《礼記》の〈礼は往来を尚(たつと)ぶ〉という語が成語として日常に使われているように,もてなしの相互応酬は最も礼にかなったものとされるのである。
執筆者:三浦 国雄
ヨーロッパ
もてなし(ホスピタリティhospitality)は,贈与関係と並んで,原始社会から中世のヨーロッパ諸民族に遍在する,人と人,共同体と個人を媒介する基本的な社会関係の一つである。もてなしの機会は宴会とも重なり合うが,知己の賓客を迎えた饗宴や,共同体的な結束を表現する祭宴と区別される本来のもてなしは,主として共同体外から来る遠隔の客,見知らぬ旅人に無償で食事とベッドを提供し,無事に旅を続けさせること,また困窮者,病人を収容し,治療を施し,行倒れなどを埋葬することを指す。これら共同体外の者を〈客〉として自分の家に受け入れた者=〈主人〉は,その間,客の保護者となる。冒頭でもふれているように,もてなしを意味するラテン語のホスピタリタスhospitalitasは同じラテン語のホスペスhospesに直接の起源をもつものであるが,さらにさかのぼれば〈見知らぬ人〉〈敵〉を意味するホスティスhostisに語源的に関連する。ホスティスに対応するギリシア語のクセノスxenos,東ゴート語のガスチgasts,古スラブ語のゴスチgostǐは,いずれも〈外来者〉〈外国人〉〈見知らぬ人〉を原義とする。これら,もしくはその関連語彙は,客と主人の両義をもっている。すなわち,ギリシア語のクセノス,ラテン語のホスペスはそれぞれ客のみならず主人をも意味し,英語のゲストguestとホストhost,ロシア語のゴスチgost'とゴスポジーンgospodinは同根である。共同体外の見知らぬ人は敵ともなり客ともなりうる。客にとっては主人が共同体外の人であり,客と主人は相互兌換的関係にある。異国の人をもてなす際に贈物が伴うことがあり,またその関係が入れ代わることもあるが,しかしだからといって,このもてなし慣行を,非市場経済的な対価つき接客や交易の一形態と混同すべきではない。それは非市場経済を前提としてはいるが,個々の共同体もしくは国家を超えたより広い社会における互助・互酬の制度である。
旧約聖書は見知らぬ旅人に対するもてなしの内容,同じ人物を敵ともみなすこと,一方客として受け入れた主人の保護義務などについて多くの例を示している。ロトは見知らぬ2人の旅人(実はソドムの町を破壊しに来た神の使者)を家に招き入れ,足を洗わせ,食事を与え,翌朝早く旅を続けられるよう宿泊を勧める。しかしソドムの町の人々はこの外来者を敵とみなして外に出すようロトに要求し,ロトは自分の2人の娘を犠牲にしても旅人を守ろうとする(《創世記》19。ほかに同18,《士師記》19を参照)。
古典古代人のもとでは,王族や英雄たちはあらかじめ知己でなくとも,旅中の宿泊と食事を接待し合い,そのことが相互の友情を育て,その友情は家族内に相伝された。アルゴスのディオメデスは,トロイアの戦場で出会った敵将リュキアのグラウコスが,かつて自分の祖父オイネウスによって20日間のもてなしを受けたベレロフォンの孫であることを知ると,槍を地面に突き立てて言う。〈それでは,きみは,わたくしにとっては,ずっと昔から親代々の懇意な家どうしのものだ……。さればこそ,今ではわたくしが,きみに対してアルゴスの中で,親しい宿の主人を務め,リュキアでは,もしもわたくしがそちらの国へ行ったらば,きみが主人になってくれよう〉(《イーリアス》)。古典期になってもエウリピデスは客と主人の兌換性について語っている(《アルケスティス》)。見知らぬ旅人や困窮者に飲食と助力を与える機能は主として王族や〈りっぱな人物〉(プラトン《メノン》)に期待されており,漂泊中のオデュッセウスは何度も見知らぬ王族から保護を受ける。しかし庶民もまたもてなしを美徳としていた。豚飼いのエウマイオスは乞食の老人(オデュッセウス)をできるかぎりもてなす。〈よその人も物乞いもみんなゼウス様がよこされた者で,施しはたとえわずかでも,わたしたちのような者からのは,うれしいものなのだ〉(《オデュッセイア》)。神は旅人に姿を変えて人々の間に姿を現すもので,とくにゼウスは旅人の神と考えられた。〈ゼウスは嘆願者とよそから来た者のための報復者で,旅人の神,敬虔な旅人を見守りたまう神〉(同),〈他国の人の守り神なるゼウス〉(同),〈神々は異国の人に身を変え,ありとある様に身をやつして,人間の非望と分別とを取調べに町々を歩き回る〉(同)。
ケルト人における旅人の接待についてとくに特徴的なことは,その共同体的な性格である。ケルト社会では王・族長は,親族的なものと信ぜられた共同体の長であり,彼らは族民を支配するが,同時に共同体成員の困窮者を扶養する義務を負い,しばしば定期的な宴に族民を招待しなければならなかった。他の共同体の出身者である見知らぬ旅人を無条件,無償でもてなす義務も第1に王・族長にあり,このホスピタリティと共同体内的慣行とは実践上混交していた。アイルランドでは道路沿いの要所に旅人を迎えるべき専用の建物bruidenが設置された。その管理人(接待者brugaid)は,相続人のいない土地,没収財産など公・共同体に帰属する土地の利用権を与えられ,その収入の中から接客費用をまかなった。カエサルは,〈ガリアの風習では旅人がいやがっても無理に引き止め,それぞれ耳にしたことや知っていることを聴きたがる〉(《ガリア戦記》)と言っているが,全体の文脈は軍事情報のガリアの首長たちへの伝播可能性と関連しているので,〈旅人を引き止め〉る主体はここでも族長や施設管理人だったかもしれない。これらの施設は12世紀のアングロ・ノルマンの侵入とともに衰退した。アイルランド,スコットランドは教会,修道院が旅客専用の建物tech-óiged(tech=taigeは〈家〉,óigedは〈客〉の意)をもって見知らぬ旅人に食事とベッドを供したが,これも16世紀にヘンリー8世の修道院領没収によって終わった。
ホスピタリティにあたるドイツ語Gastfreundschaftが示すようにゲルマン人の客もてなしは名高い。〈どんな目的でやって来た者にでも乱暴は控えて,神聖なものとしている。お客にはすべての家が開かれて食事が分けられる〉(《ガリア戦記》)。〈そのなんぴとたるを問わず,これに対して宿を拒むことは瀆神の行為とされ,だれもその資産に応じ卓を設けて客を迎える〉(タキトゥス《ゲルマニア》)。《ベーオウルフ》《ニーベルンゲンの歌》,アイスランドのサガなどは,身分の高下を問わず旅人を客とする無数の例を提示している。主人は客の保護者であり,客は主人に随行する。戦時であれば客は主人側について参戦するのが慣行的義務である。エッダ中の〈リーグの歌〉は北欧の3身分の起源を説明することを主題としつつ,旅人に対するもてなしのあり方を示唆している。アース神の一人ヘイムダルはリーグRígrと名のって3組の夫婦の家をつぎつぎに訪れ,3晩にわたり食事を供され,夜は夫婦のベッドの真ん中に寝る。いずれの場合も主婦は9ヵ月後に子どもを生み,その子どもたちがそれぞれ奴隷,農民(自由人),侯(ヤール)の祖となった。ヘイムダル神はこの歌でのみリーグと名のっており,それはアイルランド語で〈王〉の意味であるため,歌の内容のゲルマン的もしくはケルト的起源は問題となるところである。旅人を3晩もてなすのはしかし,ゲルマン人の慣習であり,庶民の間では客を主人夫婦と同じベッドに寝かせることも通例だったかもしれない。しかしここで示唆されている旅人への妻の提供がゲルマン人,もしくはケルト人のもとで慣行だったかどうかは問題であろう。
中世ヨーロッパにおいて異郷の旅人に食事とベッドを供し,病人や困窮者を助ける仕事は第1に教会のものとなった。すでに451年にカルケドン公会議は司教たちに貧者と病人を助けるよう指示し,カール大帝の勅令も困窮した旅人と病人のために教会が施設をもつべきことを命じている。ケルト人地域以外でも各地方の主要道路沿いに修道院は,巡礼その他の旅人の宿泊施設xenodochium,病人の収容施設nosocomiumをもった。巡礼はその疲労のためにも発病したが,また病気のゆえに巡礼に出た(とくに癩患者)。このため古いホスピタリティの延長上に,教会のもとで,病院(ホスピタルhospital)と宿泊所ないし救貧院,養老院(ホスピスhospice)が発展した。〈どんな目的でやって来た者にでも〉家を開く能力が私人に失われるとともに,犯罪人や政治亡命者を含む緊急避難者を保護する機能も教会のものとなり,これには教会の世俗権力に対する独立性の主張が関連している(アジール)。都市では,金銭を受け取って食事と宿を提供する旅館料理業(宿屋)が発達するとともに,私人の寄付による病院も成立した。教会の,世俗の,また半世俗の各種団体が任意に組織され,行倒れの看護,死者の埋葬を無償で行った。もともとは聖地巡礼者や十字軍戦士から出る病人救済のためにエルサレムに組織されたヨハネ騎士団は,のちロードスを経てマルタに本拠を移し,全欧に所領をもつマルタ騎士団に変貌する。
今日なお農村部では好意ある個人が異国からの旅人を無償でもてなすことがあり,身元不明の困窮者,病人,行倒れは,慈善団体,教会,公共自治体もしくは国家が世話をすることになっている。
執筆者:熊野 聰
ロシア
古来スラブ人のもとにおいて客を温かくもてなすことが重要な徳目の一つであったことは,〈客の来たるは家に神あるごとし〉のようなことわざや,乞食や巡礼の姿に身をやつして遍歴するキリストとその聖者たちについての伝説がスラブ全域に広く流布していることからもうかがうことができる。キエフ・ロシアのウラジーミル・モノマフの有名な《子らへの庭訓》には次のような一節が含まれている。〈何よりも客を敬え。たとえ相手がどこから来た者であろうと,また平民であろうと,貴族であろうと,使者であろうと,それは問うな。もし贈物を与えることができなければ,せめて飲み食いだけはさせよ。よきにつけ,あしきにつけ,旅をする者はすべての国々に人のうわさを広めるものであるから〉。スラブ諸語で客を表すゴスチgost’あるいはホストhostということばは,キエフ時代のロシア語においては〈他国から訪れる商人〉を,またモスクワ時代には〈特権的な大商人〉をも同時に意味した。古く異郷から来訪する商人が客として遇されたことがわかる。キエフ・ロシアでは,もてなしを強要することが支配の一形態でもあった。初期の公たちは従士団を率いて収穫が終わった直後の秋から冬にかけて領域内の土地を巡回し,もてなしを受けるとともに貢税の徴収にあたった。この制度はポリュージエpolyud'e(巡民)と呼ばれた。古い時代のロシア人が概して住む人もまばらな森の中に住んだところから,旅人に食物と憩いの場を提供するならわしがとくに発達したとする説もある。ロシア語で歓待はフレブ・ソーリkhleb-sol'(パンと塩の意)とも表現されるが,これは大型の円パンの上に塩を添えて来客を出迎えた風習に由来している。19世紀以降茶を飲む習慣が普及してからは,独特の形をもつ湯沸し用のサモワールも歓待とだんらんの象徴の役割を果たしている。〈まず食物をふるまってから,ものを尋ねよ〉〈パンと塩は盗賊の心も和らげる〉などのことわざはロシア人のもてなしのあり方を示している。ロシア革命前のロシアの貴族や裕福な商人の家庭は絶えず大勢の食客や居候(いそうろう)を抱えているのがつねで,現在に至るまで客好きと歓待はロシア人の民族的特性の一つをなしている。
執筆者:中村 喜和
イスラム社会
もてなしは,イスラム教徒の主要な人倫の一つでアラビア語でディヤーファḍiyāfaという。アラブの遊牧民は,昔から見ず知らずの者でも客として迎え,手助けをして3日間(最初に共食した食物が体内にとどまる期間),何不自由ないように尽くすのが神聖な義務とされた。この遊牧民の美風は,イスラムにも受け継がれ,コーラン(4章40節)やハディースの中で,孤児や貧乏人などとともに,見知らぬ者や旅行者を客として敬意をもって迎え,慈善や喜捨を施すべきことが説かれている。したがって〈もてなし好き〉と評判を得ることは,その人の徳の高さが公認されることを意味する。詩を好むアラブは,ある人物の人柄のよさを叙する場合,そこでは必ず〈もてなし〉が主題とされる。砂漠的世界においては,かまどの大きさ,灰の多さ,テントの前で焚くもてなしの火が,定住の世界においては,もてなしの頻度,贈物,物惜しみしない気風がたたえられる。〈もてなし好き〉で有名な人物は多く知られているが,ことにハーティム・アッターイーなどは時代や地域を超えて知られた代表的人物である。もてなしを受ける側で注意すべきは,相手の好意に対して最大限報いることであって,たとえば出された食事を拒絶したり,少ししか食べなかったりすることは,ホストを侮辱することを意味する。しかし,また,明らかに食べきれないほどの量の馳走が出された場合には,残りは家族や近隣の者に回されるので,適量を食べたのち礼を言い席から立ち去るのが礼儀なのである。
執筆者:堀内 勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報