昌福寺(読み)しようふくじ

日本歴史地名大系 「昌福寺」の解説

昌福寺
しようふくじ

[現在地名]増穂町青柳

富士川の西岸川と利根とね川のほぼ中間、旧駿州往還沿いに位置する。寿命山と号し、日蓮宗本尊は大曼荼羅。慶応四年(一八六八)当寺が提出した明細帳(寺記)によれば、永仁六年(一二九八)に昌福阿闍利十如院日全を開山として創建。寺伝によれば日全は小室山妙法みようほう寺の日伝の弟子で、日伝作の延寿日蓮大士像を与えられたことによりこれを山号とし、自らの名を寺名とした。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)には、「林蔵坊 青柳昌福寺」とあり、屋敷四九〇坪の坪銭が免除されている。

昌福寺
しようふくじ

[現在地名]長岡市四郎丸四丁目

曹洞宗、万融山と号し、本尊は行基作と伝える聖観音。寺伝では慶長一二年(一六〇七)苗山牧大が現在の城内じようない町の地に創立したが、元和四年(一六一八)長岡城築城のため四郎丸村に移転。戊辰戦争の際には長岡軍の野戦病院となり、河井継之助が負傷の時まずここに収容された。そのため西軍の放火に遭った。明治二年(一八六九)一時藩設立の国漢こつかん学校に充てられた。

昌福寺
しようふくじ

[現在地名]刈谷市野田町 西屋敷

野田のだ町の北に位置し、洪積台地の縁辺にある。寿永山涼清りようせい院という。浄土宗鎮西派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、応永一五年(一四〇八)念誉永専の開基、もと永専えいせん坊と称し、真宗高田派に属したが、五世専誉存慶のとき浄土宗鎮西派に転じ、昌福寺と改めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報