新撰 芸能人物事典 明治~平成 「普久原朝喜」の解説
普久原 朝喜
フクハラ チョウキ
- 職業
- 琉球民謡家
- 肩書
- 関西沖縄芸能協会会長
- 生年月日
- 明治36年 12月30日
- 出生地
- 沖縄県 中頭郡越来村(沖縄市)
- 経歴
- 大正3年村が購入した蓄音機で初めてレコードを聴き感激。やがて富原盛勇が歌う「宮古ノニ」の影響で松の枝と缶詰ガラーによって自作した三線で沖縄民謡の練習を開始し、将来は自身のレコードを出すと決心した。12年家計の悪化に伴い、出稼ぎとレコード制作の技術を学ぶため大阪に渡り、紡績工場への勤務やSPレコードの行商などを行うとともに蓄音機の修理も請け負う。15年には尼崎に喫茶店を開業。同年内外蓄音機商会の依頼により、当時の金額で1ヶ月60円の契約で「ハンタバル」「ナークニー」といった沖縄民謡を吹き込むが、売れ行きが悪く契約金を30円まで値切られたうえ、売れ残ったレコードをすべて買い取ることとなり、再び行商をはじめる。この一件を機にレコードの自主制作を企図するようになり、昭和2年太平マルフクレコードを設立し、沖縄で古くから歌われてきた古典から、新民謡、組踊、沖縄歌劇まで幅広いジャンルのレコードを制作。また自ら販売にあたり、自転車の荷台にレコードを積んで精力的に行商に赴いた。一方、沖縄民謡にマンドリン、バイオリン、ギターなどの洋楽器やヤマトグチ(日本標準語)による歌詞を取り入れるなど新たな試みを行った他、「世宝節」「親心」「無情の歌」「移民小唄」「軍人節」などの曲を自作自演し、カキバンチという三線の連弾奏法を編み出して名手といわれた。さらに知名定繁、大宜見小太郎、宇根新三郎、宮城輝忠、妻の京子、養子の普久原恒勇ら後進の育成にも力を注ぎ、沖縄の人々に“チコンキー・フクバル(蓄音機の普久原)”と親しまれ、関西と沖縄の民謡の架け橋となった。17年戦争により一時レコード制作を中断するが、戦後復活し、22年自ら作詞・作曲した「懐かしき故郷」を発表。34年に45回転シングル盤の「通い船」をリリースして以後、沖縄に居る養子の恒勇に会社の経営を任せた。56年には自身の喜寿と、妻・京子の古希を祝ってマルフクからカセット「朝喜・京子の世界」が発売された。
- 没年月日
- 昭和56年 10月20日 (1981年)
- 家族
- 養子=普久原 恒勇(作曲家)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報