智識寺(読み)ちしきじ

日本歴史地名大系 「智識寺」の解説

智識寺
ちしきじ

[現在地名]上山田町上山田 釜屋

清源山と号し、天台宗大御堂観音堂の別当寺である。

初め大御堂は冠着かむりき山麓の曾根堂にあり、建久年間(一一九〇―九九)再興して弥勒寺観音林に移り天正年中(一五七三―九二)修繕し現地に移ったと伝えられ、現存の棟札(智識寺蔵)には「慶長十四季三月廿八日奉造作大御堂」と記されている。

堂は桁行四間、梁間三間、寄棟造・妻入の茅葺で正面外陣にあたる部分のみに疎を入れ、他は省略し、細部を唐様とした室町時代の特色ある建造物で重要文化財指定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「智識寺」の意味・わかりやすい解説

智識寺
ちしきじ

大阪府柏原(かしわら)市太平寺(たいへいじ)町にあった古寺。発掘調査によって薬師寺式の伽藍(がらん)配置が確認され、また出土物から白鳳(はくほう)期(7世紀の後半)に創建されたと推定されている。この地の豪族茨田宿禰(いばらだのすくね)を中心とする、在地の信者(知識)たちが集まって建てた民間の寺であった。本尊盧遮那仏(るしゃなぶつ)で、聖武(しょうむ)天皇が740年(天平12)に当寺を訪れて、大仏造立を決意したという。743年に、東大寺造立を諸国の知識の寄付によって行う詔(みことのり)を発したが、これも智識寺の例に倣ったものといわれる。奈良時代、平安時代ともに寺勢は向上したが、1086年(応徳3)に伽藍が転倒してからは荒廃し、やがて太平寺(たいへいじ)と寺号を改め、その後は観音(かんのん)寺と改称していたが廃寺となった。

水谷 類]

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事典・日本の観光資源 「智識寺」の解説

智識寺

(長野県千曲市)
信州の古寺百選」指定の観光名所

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「智識寺」の解説

智識寺

長野県千曲市にある寺院。室町時代後期に建てられた大御堂は国の重要文化財に指定されている。アジサイの名所。

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世界大百科事典(旧版)内の智識寺の言及

【上山田[町]】より

…西部の冠着(かむりき)山の山麓は地すべり地形で,田毎の月で知られる階段状の水田が見られる。智識寺には重要文化財の大御堂や十一面観音立像がある。【柳町 晴美】。…

※「智識寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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