新山村(読み)あらやまむら

日本歴史地名大系 「新山村」の解説

新山村
あらやまむら

[現在地名]上山田町新山

現上山田町の南西部。宿しゆくを親村として天坂あまさか寄合よりあい清水しみず西山にしやま漆原うるしばら等の集落が散在する。

天正一九年(一五九一)一二月二二日の信州更級郡庄内新山村検地定年貢之事(波閇科神社文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、このほかに寺社領都合一二一俵一斗九升九合七勺を記す。また、享和三年(一八〇三)五月松代藩村名取調べの際の報告には「庄内庄、村上郷、冠着里、更級郡新山村」とある(上山田町誌)。「庄内」とあるのは村上庄内の略称で庄内新山村は村上庄六ヵ郷の一村であった。

「大塔物語」は寄合肥前守が応永七年(一四〇〇)九月の大塔合戦に、村上満信に属して奮戦したことを記す。延時の子基輔、新山の入山いりやまに分地して入山氏を称した。

新山村
にいやまむら

[現在地名]米子市新山

古市ふるいち村の西にあり、南・西は出雲国。国境付近は標高約六〇メートル、その下方の谷の茗荷谷みようがだに池から北東流する新山川は、下流部で加茂かも川となる。北部山麓からは古代集落跡や鍛冶場跡が検出されている。南東部国境にそびえる要害ようがい(二八一メートル)には戦国期に長台寺ちようだいじ城が置かれた。同城は新山要害などともよばれ、永禄年間(一五五八―七〇)には伯耆に進出した尼子氏の国境の拠点の一つとなり、毛利方との間で戦闘が繰返された。永禄六年の閏一二月一〇日付の小早川隆景書状(閥閲録)によれば、当時河岡かわおか城に在城していた山田満重に対し「長台寺」山下での山田方諸兵の奮戦が賞されている。翌七年正月二一日付の満重宛吉川元春書状(同書)などでは長台寺城攻略が促されており、天万てま(現会見町)とほぼ同じく、同年毛利方に攻略されたと推定される。

新山村
にいやまむら

[現在地名]山形市新山・上柳かみやなぎ下柳しもやなぎ

行沢なめさわ村の南東に位置し、馬見まみさき川の支流なめ川沿岸の山間地に立地。笹谷ささや街道沿いの街村で、宿駅が置かれた。江戸時代前期は焼山やけやま村と称していたが、度々大火に見舞われたため、新山村に改めたと伝える。最上氏改易後は山形藩領となり幕末に至る。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録には焼山村とみえ、高九四石余。同一六年の焼山村の定納一紙(鈴木文書)では高一〇七石余、反別田二反余・畑二三町五反余(うち屋敷一町二反余)。ほかに小白川こじらかわ南青柳みなみあおやぎ前田まえだ今塚いまづかの四ヵ村に出作地七反余がある。正保郷帳でも焼山村とみえ、田九石余・畑八四石余。

新山村
しんざんむら

[現在地名]双葉町新山

浜街道に沿い、南は前田まえだ村、北は長塚ながつか村に続く。元亀(一五七〇―七三)頃と推定される四月二八日の岩城宣隆書状(色川本岩城文書)に「両地入手裏候、依之態々簡札畏悦之至候、如承候ハ、不思義之仕合、両城落居、併連々御祈念故と被存候、就中新山ニ御参籠候ける哉」とみえる。寛永一六年(一六三九)の高七二八石余(相馬藩政史)。正保郷帳では田方三八八石余・畑方一〇七石余。

新山村
にいやまむら

[現在地名]東区牛田新うしたしん町三―四丁目

太田おおた川左岸に位置し、北は戸坂へさか村、南は牛田村に接する。安芸郡に属した。平地は少なく、東部は山がちで自在じざい坂では山が川に迫っている。村名は南寄りにある新山(約五〇メートル)に由来する。

新山家系譜(「閥閲録」所収新山十郎左衛門家文書)によると、新山氏はもと武田姓で、親信の時に在名をもって新屋氏を称したが、寛永年中(一六二四―四四)毛利氏から「唯今ヨリ武田領在名新山ニ相成候様ニ」といわれて新山と改称したという。

新山村
にゆうやまむら

[現在地名]伊那市大字富県とみがた 上新山かみにゆうやま下新山しもにゆうやま

三峰みぶ川の支流新山川は戸倉とくら(一六八一メートル)高烏谷たかずや(一三三一メートル)に源を発して北流し、大島おおしま村の対岸において三峰川に合流する。この新山川の作る北向きの谷が新山村である。新山の初見は、大永四年(一五二四)の諏訪前宮三之柱造宮料請取日記(矢島正昭氏蔵)である。

「長野県町村誌」によると、「新山村は大永年中丹生山村と云ふ。

新山村
にやまむら

[現在地名]尾上町新山

田圃を隔てて北に大曲おおまがり(現田舎館村)、北東に田舎館いなかだて(現田舎館村)、南に蒲田かまた村があり、西は支村の堀切ほりきりに続く。

津軽一統志」によれば、天正一五年(一五八七)「当国平賀郡猿賀山深沙大権現の別当神宮寺天台宗猿賀新山高木村領合て五千石を領せしが」とあるが、正保二年(一六四五)の津軽郡之絵図、慶安年間(一六四八―五二)の御郡中絵図(市立弘前図書館蔵)にも村名がない。

新山村
あらやまむら

[現在地名]利賀村新山

大牧おおまき村の西、庄川左岸の高所に位置する。赤祖父あかそぶ(九八八メートル)の東側にあたり、標高およそ五〇〇メートル。南は障子倉しようじぐら(現平村)へ二五町、北は栃原とちはら村へ三四町(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。いずれも所用だけの通い道程度の難路。正保郷帳に村名がみえ高三六石余、畑方のみで二町四反余。明暦二年(一六五六)の免四ツ三歩五厘、同年以後、納所金子六両三匁七分余・塩硝役金子二匁一分余・手上金子一匁四分余、蝋・漆・蓑・紙役金子一匁八分余、計八両三分余を課せられており、この代銀三七六匁一分余を夏成・冬成の両度に納めた(天保一〇年「草高免付百姓数品々帳」利賀村公民館蔵)

新山村
にいやまむら

[現在地名]福山市駅家えきや町新山・駅家町弥生やよいおか

近田ちかた村・中島なかしま村の北、蛇円じやえん山から南方に延びる山地に位置する。当地には大迫金環塚おおさこきんかんづか古墳をはじめ多くの古墳が存在、とくに小山田おやまだ地域には数十基の古墳があって、中島の古代集落跡と古墳群に接続している。小山田宝塚たからづか古墳(円墳)は片袖式の横穴式石室が開口し、全長七・七メートルの巨大な石材で構築されている。「西備名区」は「此邨は、むかし穴の海の比、中島と柏山の間、湾なりしか、一夜の間に湧出して、中島に続きしと斯云とそ」と記すが、古くから人々が居住した地域であることは遺跡が証している。

新山村
あらやまむら

[現在地名]松之山町新山

浦田口うらだぐち村の北に位置し、南東は光間ひかるま村、北は大荒戸おおあらと村。浦田口村の村山家はもと当村と黒倉くろくら村の境、西荒山淀野にしあらやまよどのにいたといわれ、同家に伝わる永享二年(一四三〇)四月一一日の朱印状に「松之山之内西荒山名主職之事」とあり、また寛正四年(一四六三)六月二一日の文書には「右之浦田あらやま上さかい之事者京都よりの御代官殿まへにてあらやま谷へおちつき申処実也」とあり(両文書とも差出人・宛先は未詳)、あらやま(荒山)の名がみえる。伝えによれば、以前はもっと東寄りの光間村の近くにあったが、度重なる地滑りを経て江戸時代初期に現在地に移ったという。正保国絵図荒山村とみえ、高二石余。

新山村
にいやまむら

[現在地名]金峰町新山

宮崎みやざき村の東、阿多あた郷の中央部にあるなか(二八七・五メートル)の西麓に位置し、ほり川に注ぐさかい川の支流岸元きしもと川流域に展開する。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によると高八四三石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高五七一石余。

新山村
あらやまむら

[現在地名]八尾町平林ひらばやし

百山ももやま村の西にある。元禄一一年(一六九八)の古田新田高村付改帳(前田家文書)に村名がみえ、明暦四年(一六五八)から延宝期(一六七三―八一)までに成立しており、高一六石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に村名がみえ、高一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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