日本歴史地名大系 「三田郷」の解説 三田郷みたごう 広島県:安芸国高田郡三田郷「和名抄」高山寺本・東急本ともに「三田」と記し、前者は「美」、後者は「美多」と訓を付す。「芸藩通志」は「三田は今三田村あり」とする。「日本地理志料」は「読屯田為御田、上古置官田処、因名焉」と記し、平安中期以降しばしば厳島文書にみえる三田郷とし、郷域を三田・秋山(あきやま)・小越(おこえ)・志路(しじ)の四村(現広島市安佐北区)とする。「大日本地名辞書」は「今三田村及び秋越村是なり、井原の西南、志路の南にして、賀茂郡の志和及び安佐郡の深川に連接す」としている。 三田郷みたごう 島根県:隠岐国知夫里郡三田郷「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本・元和古活字本に「美多」、名博本は「ミタ」と訓を付す。藤原宮跡出土木簡に知夫利(ちぶり)評「三田里石真□支軍布」、平城京二条大路跡出土木簡に隠伎国智夫(ちぶ)郡「美多郷石部員万呂凝海菜六斤」とあり、軍布・海菜を納入していたことが知られる。また天平七年(七三五)美多(みた)郷美禰(みね)里の石部水島が調として乃利(海苔)を貢進している(二条大路跡出土木簡)。 三田郷みたごう 岐阜県:美濃国山県郡三田郷「和名抄」所載の郷。同名の郷は隠岐国知夫郡・安芸国高田郡にみえ、刊本ではいずれの場合も「美多」と訓じており、それに従う。大宝二年(七〇二)の御野国戸籍(正倉院文書)に載る「山方郡三井田里」の故地であろう。和銅六年(七一三)から神亀三年(七二六)にかけての郡郷名の好字への統一、およびそれ以後の郷里制、そして郷制への移行により三田郷となったものであろう。なお天平二〇年(七四八)の奈良宮中中島院例得度注文(正倉院文書)には「山県郡御田郷」とある。 三田郷みたごう 三重県:伊賀国阿拝郡三田郷「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「美多」と読む。天喜四年(一〇五六)二月二三日付散位藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に「三田郷」とみえ、郷内に「小田村」がある。「三国地志」は三田郷三田・大谷(おおたに)・比曾河内(ひそがち)(現上野市)、音羽(おとわ)・丸柱(まるばしら)(現阿山郡阿山町)にあてるが、現上野市小田(おた)町・三田・野間(のま)・諏訪(すわ)、阿山町音羽・丸柱辺りに比定される。 三田郷みたごう 鳥取県:因幡国智頭郡三田郷「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は大和朝廷の直轄領屯田に由来するとされる(日本地理志料)。現智頭町三田(近世の三田中村・三田井上村)を遺称地とし、土師(はじ)川が千代川に合流する地域および新見(にいみ)川流域一帯に比定される。 三田郷みたごう 宮城県:陸奥国刈田郡三田郷「和名抄」東急本にみえるが訓を欠き、高山寺本には記載されない。「日本地理志料」では「美多」と読む。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by