壮士芝居とともに初期新派劇をさす呼名。歌舞伎が主流であった1880年代末に,自由民権運動末期の政治宣伝劇としてこの新しい演劇ジャンルは生まれてくるが,歌舞伎の俳優が職業俳優であったのに対して,この新演劇は書生あがり,壮士あがりの素人によって始められ,名称の由来ともなった。1890年川上音二郎は大阪俄(にわか)を改良した〈書生仁輪加(にわか)〉の一座を組織して横浜,東京で公演,翌91年には堺の卯の日座に〈書生芝居〉の一座を旗揚げし,同年東京浅草鳥越の中村座に《板垣君遭難実記》やオッペケペ節を演じて喝采をあびた。これが書生芝居の最初とされる。書生出身の俳優が舞台に出演するばかりでなく,当時の風俗を写していたため演目に書生の役も多く,書生芝居は,芝居は未熟でもキビキビした活発な立回りや清新な演技が注目を集めた。川上一座の成功によって1890年代には,書生芝居の一座が各地に輩出し,新演劇発展の一因となった。
執筆者:藤木 宏幸
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…しかし,今日われわれが〈新派〉と呼びならわしている演劇ジャンルの発端は次の二つの動きの中に見ることができる。一つは1888年12月3日,大阪の新町座で自由党壮士角藤定憲(すどうさだのり)が〈日本改良演劇〉を名乗り,《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》などを上演し,また遅れて91年2月5日,堺の卯(う)の日座で川上音二郎が新演劇の旗揚げをした,いわゆる壮士芝居,書生芝居の運動である。彼らは,ともに民権運動期の政治講談,政治小説を劇化上演したが,もはや民権運動が衰退した時期にあって,思想鼓吹が主たる目的というよりも,生活手段を芝居に求めたという気味が強かった。…
…明治20年代(1887‐96)に自由民権運動の壮士が思想宣伝を目的として行った演劇の称。のちに一般には〈書生芝居〉とも称され,新派の一起点となった。定説では1888年(明治21)12月3日,大阪の新町座で自由党壮士角藤定憲(すどうさだのり)らが〈大日本壮士改良演劇会〉を開催し,《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》《勤王美談上野曙》を上演したのが始まりといわれる。…
※「書生芝居」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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