20世紀初頭、イタリアでおこった芸術運動。未来派ともいう。この運動は、1909年2月20日、詩人マリネッティがパリの『フィガロ』紙に「未来主義宣言」を発表したことに端を発する。これに呼応して、ミラノのボッチョーニ、カッラ、ルッソロ、パリのセベリーニ、ローマのバッラらの美術家が、翌10年2月11日ミラノで「未来主義画家宣言」に、すこし遅れて「技法宣言」に連署することによって、明確な運動の形をとることになった。
未来主義の思想的立場は、第一次世界大戦を前にした1910年代初頭の不安に満ちたイタリアの社会情勢、すなわち自由主義的なブルジョアと勃興(ぼっこう)する労働者階級の反発、植民地拡張政策と国粋主義的な気運といった状況を背景として、伝統的な文化、懐古的な趣味とまっこうから対立し、急速に進歩しつつあった機械文明を積極的に芸術に取り入れて、まったく新しい美学を打ち立てることにあった。「機関銃の弾(たま)のように疾走する自動車は、サモトラキのニケよりも美しい」(「未来主義宣言」)というマリネッティのことばに代表されるように、そこでは速度が重要な要素と考えられた。未来派の画家たちは、後期印象派の点描主義や、19世紀末のイタリアの分割主義に由来する光と形態の解体の方法を活用して、運動の速度を主題とした作品を次々に発表した。こうした理念は必然的に既成のジャンルの境界を破壊し、建築家、音楽家などを巻き込み、詩、装飾美術、写真、映画、舞台芸術など、あらゆる領域にわたる総合芸術の方向に展開した。すなわち、プラテッラFrancesco Balilla Pratella(1880―1955)の「未来主義音楽家宣言」(1910)、マリネッティの「未来主義演劇家宣言」(1911)、サンテリアの「未来主義建築」(1914)をはじめとして、彼らは攻撃的な用語を用いた論文を相次いで発表する。「自由詩」「色彩音楽」「騒音芸術」「匂(にお)いの絵画」といった革命的概念が次々と噴き出し、画家として活動していたルッソロは1913年以降騒音音楽に言及、自ら発明した巨大な「騒音機器」を用いて公衆の面前でデモンストレーションを行った。
しかし、こうした未来主義のオプティミズムは、本質的に機械文明を賛美する方向性をもち、マリネッティが1913年に「未来主義政治綱領」を発表するあたりからファシズムと結び付く形となる。しかも、第一次大戦によってボッチョーニとサンテリアを失ったため、運動の活力は著しく減退した。第一次大戦後は、バッラのほか、先に15年にグループに参加したデペロFortunato Depero(1892―1960)が中心になり、新たに画家や建築家を加えていわゆる第二未来派が結成され、ローマ、ミラノ、トリノなどで活発な活動が行われたが、前衛運動としての統一性はもはや取り戻すことはできず、20世紀ヨーロッパ美術のさまざまな展開のなかにしだいに解消されていった。
未来主義はファシズムへの接近という悲劇的な側面をもったため、第二次大戦後しばらくは言及を避ける風潮があったが、近年徐々にその文学史、美術史的意義が再評価されつつある。ダダに与えた直接的な刺激はもとより、現代芸術のあらゆる可能性を先取りしていたということができる。また、マリネッティが1914年モスクワに赴き、マヤコフスキーをはじめとするロシア・アバンギャルドに大きな影響を与えたことは特筆すべきである。日本にもマリネッティの「宣言」はいち早く森鴎外(おうがい)の抄訳で『スバル』に掲載され(1909.5)、のち神原泰らによって紹介されて、大正期の前衛芸術に影響を及ぼした。
[小川 煕]
『M・カルヴェージィ著、針生一郎・岩倉翔子訳『現代の絵画15 未来派の宣言』(1975・平凡社)』▽『Joshua C.Taylor : Futurism (1961, The Museum of Modern Art, New York)』▽『Maurizio CalvesiIl Futurismo (1977, Fratelli Fabbri Editori, Milano)』
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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