1910年代から20年代にかけて,イタリアの政治,社会の変革に対応して生まれた前衛的な芸術運動。この運動はF.マリネッティの《未来派宣言》(1909)に端を発する。次いでボッチョーニやセベリーニ,バラGiacomo Balla(1871-1958)たちが1910年に《未来派画家宣言》をミラノで発表,マリネッティを指導者として,従来の芸術文化のあらゆる旧弊を破って,新しい未来社会の機械と速度のダイナミズムを礼賛した。当時の多くの若いイタリアの芸術家がこれに賛同して,過去のアカデミズムの破壊を目的とし宣言を発表しつづけた。未来派futurismoの運動は絵画,彫刻の分野に限らず,演劇,建築,音楽,写真,デザイン,そして映画の世界にも浸透して,広い芸術文化の交流をうながし,ダダやロシア,東欧の芸術運動に直接影響を与え,今日にいたる前衛芸術の方向の前兆となった。
絵画では,19世紀後半に北イタリアを中心にフランスの新印象主義のディビジョニスム(分割主義)の表現が盛んであったが,この技術を基本としていたボッチョーニやセベリーニたちは,さらにキュビスムの空間把握の方法に学び,事物に一つの精神の状態を与えることを目的として,動きのあるドラマティックな表現を試みた。とくにボッチョーニは未来派の理論に最も忠実な画家であった。建築におけるサンテリア,音楽におけるルッソロ,写真におけるブラガーリア,デザインにおけるデペロFortunato Depero(1892-1960)らが,それぞれの分野で実験的試みを行っている。未来派の運動はマリネッティたちの活動によってヨーロッパに広く知られるようになったが,1920年代以後は,その国家主義的傾向がファシズムの受け入れるところとなり,しだいに思想的な危機に陥って,イタリアにおけるこの運動自体は自然消滅することになった。
執筆者:井関 正昭
1910年代初めにロシアで起こった前衛的な芸術運動をいう。ロシア語ではfuturizm。D.D.ブルリューク,マヤコーフスキー,フレーブニコフ,A.E.クルチョーヌイフ,V.V.カーメンスキーらを中心とする〈立体未来派kubofuturizm〉(別名〈ギレヤGileya〉),I.セベリャーニンらの〈自我未来派egofuturizm〉,V.G.シェルシェネビチの〈詩の中二階mezonin poezii〉,パステルナーク,アセーエフに代表される〈遠心分離機tsentrifuga〉など,おもに四つのグループが活動した。なかでも立体未来派は,過去の文化的遺産の全面的な否定を旗印に,真に自立的な芸術の創造をめざし,M.F.ラリオーノフ,K.S.マレービチら同時代の前衛画家たちとも連帯しながら《裁判官の飼育場》(1910),《社会の趣味への平手打ち》(1912)など数多くの詩集を刊行した。詩と絵画との方法的アナロジーに立脚した彼らの作品は,いずれもシンタクスや文法の無視,新造語やザーウミzaum'(超意味言語)の使用,異化,転位の手法といった実験性に満たされたものであり,その内容もまた初期マヤコーフスキーの強靱な抒情性を秘めた都会詩から,クルチョーヌイフAleksei Eliseevich Kruchyonykh(1886-1968)の音声詩,さらには古代社会やスラブ異教へのあこがれをうたったフレーブニコフの牧歌詩と多岐にわたっている。立体未来派は成立当初からイタリア未来派との影響関係を否定し,みずからの優位性を強く主張するとともに,一貫して反戦的な立場をとった。1914年,イタリア未来派の指導者マリネッティがロシアを訪問した際,彼らの一部が妨害工作に出たことは有名である。未来派の運動そのものは第1次世界大戦の混乱の中で解体へと向かうが,その精神はロシア革命後も受けつがれ,〈芸術左翼戦線(LEF(レフ))〉や構成主義の運動に大きく花開いた。
執筆者:亀山 郁夫
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1910年代のイタリアに現れた芸術革新運動。1909年,マリネッティがパリで発表した「未来派宣言」を出発点とし,画家のボッチョーニ,セヴェリーニ,カッラ,作曲家のルッソロ,建築家のサンテーリアなどが参加した。いっさいの伝統を破壊し,躍動感,運動,速度,力といった近代的な要素を芸術で表現することを提唱して,文学や美術,建築,音楽,舞台芸術,映画など広い分野に影響を与えた。また,同じ時期のロシアでも同名の芸術運動が起こった。
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… しかし,この間に,のちの〈ネオレアリズモ〉の源流とみなされるニーノ・マルトリオ監督の《闇に落ちた人々》(1914)が作られ,そのリアリズムの流れがすぐさまグスターボ・セレナ監督《アッスンタ・スピーナ》(1915)などにも受け継がれた。また他方では,20年代後半のフランスの〈アバンギャルド〉映画の前ぶれとなった非商業的な未来派の映画運動があり,アントン・ジュリオ・ブラガリアの《不実な魅力》(1917),ルチオ・ダンブラの《王と塔と旗手》(1917)等々といった意欲的な〈芸術的実験作〉が作られた。しかし,22年,ファシスト党を率いたムッソリーニの〈ローマへの進軍〉がイタリア映画の衰退にとどめの一撃を加えた。…
… 20世紀に入ると,イタリアの演劇界はF.T.マリネッティたちの始めた未来主義運動によって衝撃を与えられる。〈未来派futurismo〉は演劇の革命をうたい,因襲的なドラマトゥルギーとは無縁な数々の短い劇作品を世に送り出した。多くは戯曲であることよりパフォーマンスを目ざしたものであった。…
…ここに,19~20世紀初頭のイタリア美術が,地方的画派となり終わった原因がある。 イタリアがバロック以後に生み出した,最初の世界的な芸術運動である〈未来派〉は,まずイタリアの過去のあらゆるモニュメントの破壊(観念上の,また事実上の)をその目的としたが,これは,ようやく20世紀にいたって,過去の栄光から脱し,自己否定による革命を行おうとする,きわめてイタリア的なアバンギャルドの方向を示している。 ところで,イタリア文化の西欧における優位性がこれほどに永く保たれてきたのは,西欧文明の中心思想である人間中心主義と合理主義とが,イタリアの伝統的芸術において最も典型的に表現されていたためである。…
…機械や科学技術の産物であるがゆえに映画を芸術ではないとする考えが強固に存在する一方,逆にそれゆえに機械と芸術を結びつけようとする〈20世紀〉の芸術運動に,映画は合流することになる。11年,イタリアのA.ブラガリアはその著《未来派のフォトダイナミックス》でこう述べている。〈映画美学の最初の理論は,本来,アバンギャルド映画に向かわねばならぬ多くの技術手段を考慮に入れていた。…
…〈パフォーミング・アーツ〉(舞台芸術,上演芸術)から区別された意味での〈パフォーマンス・アート〉は,1950~60年代の〈ハプニング〉や〈イベント〉の延長線上にあり,今日ではこれらを含めて〈パフォーマンス〉ないしは〈パフォーマンス・アート〉と呼ぶことが多い。ハプニングやイベントは,既成の様式やジャンルを解体する〈反芸術〉であり,1910年代のイタリアの未来派やダダの影響を受けている。そこでは,まず,演劇,音楽,美術といった固定したジャンルが成立せず,〈芸術〉と〈非芸術〉(日常)との間に引かれていた一線も撤去される。…
…イタリア未来派の画家,彫刻家。イタリア最南部,レッジョ・ディ・カラブリア生れ。…
…1905年にミラノで《ポエジーアPoesia》誌を創刊,〈自由詩〉を導入した。09年2月20日,パリの《フィガロ》紙上に《未来派宣言》を発表(イタリア語版は翌日ミラノで発表),いっさいの伝統的価値の破壊,新しい文化の創造を提唱した。第一作の小説《未来主義者マファルカ》(1910)は女の性を必要とせずに子どもを生む男の物語である。…
※「未来派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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