イタリアの画家、彫刻家。レッジョ・ディ・カラブリアで生まれ、1901年ローマに移住し、バッラに師事する。パリ、ロシアなどを旅したのち、07年にミラノに定住する。この時期には分割主義的技法によって近代的工業都市を主題に描く(08年の『ポルタ・ロマーナの工場』など)。さらに分離派の象徴主義やムンクの表現主義に傾く。10年「未来主義画家宣言」にマリネッティらとともに署名し、以後理論的にも未来派運動の中心的存在となる。『上昇する都市』(1910・ニューヨーク近代美術館)に続く精力的な制作において、多くの面の重層的空間、形象と環境の空間的一貫性という命題を追究した。11年以降、彫刻の制作を開始する(『空間の連続性における単独の形態』1913・ミラノ近代美術館)。また「未来主義彫刻技術宣言」をはじめとする数多くの論文がある。15年兵役に服し、翌年ベローナで不慮の死を遂げた。
[小川 煕]
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イタリア未来派の画家,彫刻家。イタリア最南部,レッジョ・ディ・カラブリア生れ。最初,新印象主義のディビジョニスム(分割主義)を学び,しだいにキュビスムの技術を用いて,未来派のダイナミックな表現にいたる。マリネッティの《未来派宣言》(1909)に共鳴し,カラ,バラ,セベリーニ,ルッソロとともに《未来派画家宣言》(1910)に署名。とくに彫刻にすぐれ,新しい機械文明に向かう時代の速度と運動の表現を通して,未来派の理想に最も忠実な芸術家となった。落馬のため34歳で没。
執筆者:井関 正昭
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… 新しい工業化社会に賛同し,旧来の社会に反逆する最も過激なマニフェストは,1909年,文学者F.マリネッティによって出された〈未来派宣言〉と,これに続く未来派の運動である。U.ボッチョーニは空間芸術の中に時間を導入しようとし,バラGiacomo Balla(1874‐1958)は光と色によるダイナミズムを表現した。だが,何よりも重要なことは,彼らが芸術諸ジャンル間の境界,および芸術創作と人生との境界を外し,あらゆる前衛芸術の方向づけを行ったことにある。…
…美術では,題材つまり描写対象と素材・材料の両面の意味をもつが,ダダ以後,後者の面で既製品を含む異質な素材を導入した立体作品をさす,特殊な用語となった。その先駆は,未来派の彫刻家ボッチョーニが,1911年,多様な素材を合成して〈生の強度〉に迫るべく,毛髪,石膏,ガラス,窓枠を組み合わせた作品をつくり,ピカソがキュビスムの〈パピエ・コレ(貼紙)〉の延長として,12年以後,椅子,コップ,ぼろきれ,針金を使った立体作品を試みたあたりにある。デュシャンは13年以後,量産の日用品を加工も変形もせず作品化する〈レディ・メード〉で,一品制作の手仕事による個性やオリジナリティの表現という,近代芸術の理念にアイロニカルな批判をつきつけ,ピカビアの〈無用な機械〉と名づけた立体や絵画も,機械のメカニズムをとおして人間や芸術を冷笑した。…
…この運動はF.マリネッティの《未来派宣言》(1909)に端を発する。次いでボッチョーニやセベリーニ,バラGiacomo Balla(1871‐1958)たちが1910年に《未来派画家宣言》をミラノで発表,マリネッティを指導者として,従来の芸術文化のあらゆる旧弊を破って,新しい未来社会の機械と速度のダイナミズムを礼賛した。当時の多くの若いイタリアの芸術家がこれに賛同して,過去のアカデミズムの破壊を目的とし宣言を発表しつづけた。…
※「ボッチョーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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