本保村(読み)ほんぼむら

日本歴史地名大系 「本保村」の解説

本保村
ほんぼむら

[現在地名]高岡市本保

伊勢領いせりよう村の北、庄川の支流祖父そふ川の下流右岸に位置。福田ふくだ七村の一。東は射水いみず十二町島じゆうにちようじま村。西は小竹おだけ村、北は荒見崎あらみさき村。草分百姓は越前国本房ほんぼう(現福井県武生市)より移住したと伝える(戸出町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳では福田組に属し、役家数一〇。正保郷帳では高四〇四石余、田方二六町九反余、新田高一五六石余。寛文二年(一六六二)福田七村の村切がなされ(「村切申付状」川合家文書)、同一〇年の村御印では草高六三六石・免三ツ、小物成は野役五匁(三箇国高物成帳)


本保村
ほんぼむら

[現在地名]小浜市本保

竹長たけなが村の北西に位置し、西は賀羅きやら嶽を挟んで太良庄たらのしよう村。宮川みやがわ谷西北の最奥にあたり、本保・奥本保からなる。宮川保成立時より集落は存在したと考えられる。室町期には幕府御料所。

寛永一一年(一六三四)の酒井忠勝入部以前は村高六二四石余のすべてが京極氏家臣の給地で、給人ごとに百姓が割当てられている(年不詳「京極若狭殿御代当村給人之各覚」清水家文書)。同一四年頃には村高のうち一四〇石余が三郎右衛門・二郎左衛門両名主の高となっており(同文書)、京極氏時代より諸役を勤めていた。酒井氏入部以後はその役を惣百姓に割当て、また小浜、熊川くまがわ(現遠敷郡上中町)への御用と称して一日八升の飯米を出させるなど横暴があり、寛永一四年八月惣百姓から訴状が出されている(同文書)


本保村
ほんぼむら

[現在地名]武生市本保町

愛宕あたご山の東側にある。西隣の片屋かたや村にかけて地割・水路などに近年まで古代条里制の遺構が残り、明治初年の丈量改正以前、四五の小字があった中にいちまちさんつぼつぼつぼろくまちなど坪付遺名があった(内藤家蔵本保村田疇全図)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高七二一・三石がみえ、正保郷帳によると田方六八六石余・畠方三五石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領になり、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、正徳二年(一七一二)頃幕府領となる。江戸中期以降、越前国内の幕府領を管轄する陣屋が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の本保村の言及

【飛驒郡代】より

…通例禄高150俵程度の旗本が就任した。管轄地は,飛驒一国3郡(寺領は除く)は一貫して変わらず,1695年に4万4400石余,1774年の検地以降5万5500石余,ほかに1726年(享保11)ごろ以降美濃の一部,67年(明和4)以降越前の一部が加わり,美濃加茂郡下川辺村と越前丹生郡本保(ほんぼ)村に出張陣屋が置かれた。さらに加賀のうち越前国境の諸村が加わるなど,飛驒以外の管轄地には変動があったが,1805年(文化2)には4ヵ国で総石高10万4200石余(ほかに美濃,越前に預所4000石余)にも及んだ。…

※「本保村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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