太良庄(読み)たらのしよう

日本歴史地名大系 「太良庄」の解説

太良庄
たらのしよう

西は高塚たかつか、東は野木のぎ(現遠敷郡上中町)を麓とする山で三方を囲まれ、南はきた川に接する谷を中心に成立した荘園近世の太良庄村の地にあたる。式内社丹生にう神社(一の宮と称する)のある丹生谷と太良谷に分れ、「和名抄」の丹生郷の一部と思われる。

天治二年(一一二五)下野守平師季の子丹生次郎隆清からその私領松永まつなが恒枝つねえだ名田・東郷丹生村・西郷太郎畠などを譲与された太郎忠政が、この田畠を中心に西郷・東郷の田地を加え、国衙領の中の独自な単位として太良保を成立させたのに始まる。ただし史料の初見は忠政死後の仁平元年(一一五一)その母が孫の若丸に丹生村・太良保などの所領を付属した時である(三月日付「丹生隆清跡田畠付属状案」東寺百合文書。以下、同文書は個別文書名のみ記す)。成人した若丸は叡山に上って丹生出羽房雲厳を名乗ったが、治承二年(一一七八)当国の知行国主平経盛により太良保の公文職に補任された。これよりさき承安三年(一一七三)雲厳の師凱雲は太良谷に薬師堂を建立し、雲厳は末武すえたけ名といわれたさきの所領をこれに預けている。凱雲はさらに無主荒野を開発、文治二年(一一八六)留守所によって一町五段の田地を馬上免として認められた(二月日付「大法師凱雲解案」)。一方、この間に起こった治承・寿永の乱にあたり、雲厳は若狭国最大の在庁官人であり御家人であった稲庭時定の指揮の下に鎌倉殿御家人となり、公文職も国主により再三安堵された。しかし時定が失脚島津忠久の兄弟津々見(若狭)忠季が守護に補任され、太良保の地頭職となるに及んで雲厳は苦境に陥り、承元二年(一二〇八)時定の子時国に公文職・末武名・薬師堂馬上免などいっさいの所領を譲り、引退する。

時国は比企の乱に連座した忠季に替わり建仁三年(一二〇三)地頭となった中条家長代官となる一方、左少将源家兼の家人となっている。その家兼の父前治部卿兼定(おそらく国主)は建保四年(一二一六)二月までに保の年貢の一部を、七条院の建立した歓喜寿かんきじゆ(跡地は現京都市下京区)の修二月雑事に充てることとしたが、これには時国の尽力もあったであろう。このとき同保は初めて太良庄といわれ、領家兼定は本家として歓喜寿院を戴く一方、時国の母中村尼を庄の公文職に補任(二月日付「前治部卿源兼定家政所下文案」)、翌年、検注を実施し、末武名を預所名とし、公文給三町と一二の百姓名を定めた。そして承久三年(一二二一)四月、七条院は官宣旨を得てこの荘を公式に歓喜寿院領としたのである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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