本庄城跡
ほんじようじようあと
宝田町との境近くの小山塊にある。現在は北側を農業用水路として利用されている小川が流れているほかは、当時の面影を伝えるものは何も残っていない。しかし明治中期頃までは各所に土塁が残っており、かなり規模の大きい城であったようである。付近には北門・海部屋敷・出屋敷・領田・船付・本庄市などの地名が残る。城主は清(清原)安芸守高国で(城跡記・阿波志)、永正三年(一五〇六)に備中足守(現岡山市)から来たとされるが(阿波志)、清原氏は応永二〇年(一四一三)以前から当城にいたとも伝える。
本庄城跡
ほんじようじようあと
[現在地名]本庄市本庄三丁目
本庄台地の末端、烏川と利根川によって削られた段丘上に位置する平城跡。北側段丘直下を元小山川が東流し、南西方向から東にかけては台地を開析した谷に三方を囲まれ、西方に台地が連なっている。城域の傍らに城山稲荷神社が祀られ、築城時に植えたと伝える県指定天然記念物のケヤキの大木がある。弘治二年(一五五六)に本庄宮内少輔実忠によって築城されたと伝えられるが、当時は南・東の低地を挟んだ台地上も城域であったという(児玉記考)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
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