村上城跡(読み)むらかみじようあと

日本歴史地名大系 「村上城跡」の解説

村上城跡
むらかみじようあと

[現在地名]村上市二之町

村上市のほぼ中央、三面みおもて川の支流門前もんぜん川左岸の臥牛がぎゆう(一三五メートル)に築かれた城。中世には本庄ほんじよう城とよばれた。舞鶴まいづる城とも称される。本庄氏、村上藩主歴代の居城。築城の時期は不明。遅くとも本庄時長が上杉定実に抗して戦った永正四年(一五〇七)までには築かれていたと思われる。

〔戦国時代〕

戦国期の城郭の様子を具体的に伺い知ることができるのは、文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図によってである。大きく「村上ようがい」と記された臥牛山頂上の建物は、板葺の入母屋と思われ平屋の曲屋様式にみえる。二ノ曲輪から六ノ曲輪までには白壁平屋や隅櫓・二階櫓があり、柵・門に囲まれる。石垣はなく、急峻な崖を利用している。麓から本丸に至る道は二筋確認され、一筋は山の中央部、すなわち現在の七曲ななまがりと通称される道で六ノ曲輪に至り、三ノ曲輪や二ノ曲輪に達する。もう一筋は南西面の城山の肩、八幡はちまん山付近から直進し、四ノ曲輪・五ノ曲輪の間を通抜け、二ノ曲輪の入口四脚門をくぐり本丸に至る。山麓には政庁らしい建物が五棟ほどある。現在城山の裏側に認められるおびただしい桟敷状の曲輪と縦堀は当時の遺構といわれる。

〔近世〕

慶長三年(一五九八)から元和四年(一六一八)までの村上氏の時には、城内に八ッ棟櫓を建てたこと、三ノ丸・大手筋の堀を掘ったこと(成田本村上城主歴代記)千貫せんがん丸に鎮座していた天満宮を東北の隅に遷し鬼門守護としたこと(宝永二年「寺社旧例記」北方文化博物館蔵)などがみえる。

村上城跡
むらかみじようあと

[現在地名]市貝町塙 村上

観音かんのん(一七二・二メートル)山頂から南腹にかけて築かれた中世の山城跡。県指定史跡。本丸跡は東西約四〇メートル・南北約八五メートルで土塁と堀が囲繞している。本丸北側に主屋跡とみられる方形の土壇がある。本丸の外側に幅一〇―一二メートルの空堀を設け、その外側の緩傾斜面には帯状腰郭がめぐり、さらに二重の土塁を築いている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「村上城跡」の解説

むらかみじょうあと【村上城跡】


新潟県村上市本町にある城跡。市街地東端にそびえる標高135mの臥牛(がぎゅう)山に築かれた平山城で、中世には本庄城と呼ばれた。中世以降、阿賀野(あがの)川の北の地域をいう揚北(あがきた)地方で中心的役割を果たした城だが、築城年は不明。中世における揚北は複数の鎌倉御家人が支配し、彼らは南北朝期以降も、守護上杉氏の影響をあまり受けず、独自の政治圏を形成し、「揚北衆」と呼ばれた。小泉荘(現新潟県村上市など)に入った本庄氏は、室町時代以降、他の揚北衆とともに反守護(上杉氏)の立場を鮮明にし、1489年(延徳1)、1493年(明応2)と守護および守護方の武将と数次にわたって合戦、1507年(永正4)の戦いでは本庄城は火を放たれた。1539年(天文8)にも本庄房長(ふさなが)が伊達・中条連合軍の攻撃を受けて落城、1551年(天文20)になって房長の子・繁長(しげなが)が本庄城を取り戻す。繁長は一時、上杉氏に従うが、1568年(永禄11)、武田信玄の誘いに応じて反旗を翻して上杉謙信と戦い、籠城戦を展開して落城することはなかった。翌年、降伏して嫡子を人質として春日山に送り、謙信父子に臣従したが、上杉景勝の会津転封にともなって陸奥国田村郡守山城に移った。そして、上杉氏の跡に入った堀秀治の与力大名だった村上義明(よしあきら)が、加賀の小松城から本庄城に移り、村上藩が成立した。その後、1618年(元和4)に村上城に入封した堀直竒(なおより)が、藩主として村上城の縄張りを行い、山上の曲輪(くるわ)を拡張し、石垣を築くなどの作事を進め、ここに近世城郭としての村上城が完成した。堀家に嗣子(しし)がなく絶家となると、1644年(正保1)、本多忠義が入城、城郭絵図に描かれた村上城はこの時のもので、本丸には3層の天守閣のほか渡り櫓(やぐら)、多門、二の丸には5ヵ所の櫓などが描かれ、この絵図によって往時の姿を偲ぶことができる。1648年(慶安1)、松平直矩(なおのり)(結城松平)が入城、以降、榊原政倫(まさとも)、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房(まなべあきふさ)の各家が続き、1720年(享保5)に内藤家初代藩主になる内藤弌信(かずのぶ)が入って、明治維新まで8代、150年近く続いた。遺構は、山上に本丸天守台、二の丸に乾櫓、巽櫓、埋門、出櫓、平櫓などの跡、三の丸に月見櫓、靱櫓、千貫丸などの跡が残り、石垣は高さ8m近く、山頂の各部にくまなくめぐらされる。山下には居屋敷、一文字門、下渡(げど)門などの跡が、藤基(ふじもと)神社境内には外郭土塁も残っており、石垣も使われている。また、臥牛山東面には本庄氏時代の遺構である腰曲輪や竪堀(たてぼり)、土塁、井戸跡なども良好に残っている。村上城は中近世を通じて揚北地方の中心であり、今日に残る遺構もそれにふさわしく壮大で、中世の遺構と近世の遺構が渾然一体(こんぜんいったい)として残る姿は貴重なものとして、1993年(平成5)に国の史跡に指定された。JR羽越本線村上駅から車で約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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