日本大百科全書(ニッポニカ) 「大坂商人」の意味・わかりやすい解説
大坂商人
おおさかしょうにん
近世において、全国経済の中心であった大坂の商人をいう。大坂は、初め石山本願寺の寺内町(じないまち)として発展、1583年(天正11)には羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の城下町として建設され、安土(あづち)、平野(ひらの)、堺(さかい)など畿内(きない)近国の商工業者を移住させた。大坂の陣による豊臣氏滅亡後、徳川氏は初め松平忠明(ただあきら)を封じ、ついで1619年(元和5)直轄領として大坂の再建を行い、伏見(ふしみ)町人を大挙移住させた。初期の豪商として、大坂三町人尼崎又右衛門(あまがさきまたえもん)、瓦師(かわらし)寺島藤右衛門(とうえもん)、大工山村与助があり、惣年寄(そうどしより)などの有力町人がいたが、このなかには安井、淀屋(よどや)など都市開発に尽力した者も多い。前期が武家出身の御用商人の活躍した時代とすると、17世紀なかばから全国経済の波にのって活躍する者が出てくる。上層は領主経済に関連をもつ蔵元(くらもと)、掛屋(かけや)などで両替商をも営む者が多かった。淀屋、天王寺屋(てんのうじや)、平野屋、鴻池(こうのいけ)、加島屋(かじまや)などであり、また問屋、仲買は1710年代(正徳(しょうとく)年間)には問屋5655軒以上、仲買1万1108軒、職人9747軒という数に上っていた。また泉屋(住友)は銅山、製錬業で大をなした。
大坂は日常必需品の加工生産を行い、全国流通の拠点となっていた。問屋、仲買の多さは江戸、京に比べても特色があり、商人の町として栄えた。井原西鶴(さいかく)が記すように「日本第一の津」の商人としての誇りと商業道徳があり、また現実的で金銭的合理主義、反中央、反アカデミズムなど独特の気風を育てた。ただ豪商の多くが領主経済に関係し、金融などで営業していたため、近代になると、廃藩で大打撃を受け、一部銀行資本に転じ、住友が財閥となった以外は没落した家も多かった。
[脇田 修]
『「大阪町人論」「大阪町人列伝」(『宮本又次著作集 第8巻』所収・1977・講談社)』