難波別院(読み)なんばべついん

日本歴史地名大系 「難波別院」の解説

難波別院
なんばべついん

[現在地名]東区北久太郎町四丁目

御堂みどう筋に東面する。真宗大谷派別院、本尊阿弥陀如来南御堂とも称する。古くは大坂御坊とよばれた。文禄四年(一五九五)豊臣秀吉より隠居を命じられていた本願寺教如が西成にしなり渡辺わたなべ大谷本願寺(跡地は現北区天満と東区道修町との二説ある)を建立し、慶長三年(一五九八)秀吉の大坂町整備によって上難波かみなんば村の現在地に移転、同七年教如が京都に東本願寺を創立したのに伴って大谷本願寺は大坂御坊となった。大谷本願寺の建立は本願寺東西分派の端緒的性格をもつものといえる。寺蔵の文禄五年鋳造の梵鐘の大きさから、大谷本願寺の伽藍は広大であったと考えられる。教如は石山いしやま本願寺、天満てんま本願寺(跡地は現北区)のあった旧縁の地大坂を選び、自らを支持する家臣・門徒団とともに大谷本願寺を別立したと思われる。現在地に移ってからは、慶長四年から同八年にかけて一五間四面の本堂が建立され、大坂難波御堂と称された(「諸御坊書抜」東本願寺蔵)。以後漸次諸堂が設けられたらしく、天和二年(一六八二)朝鮮使節来日時には宿舎の一つにあてられている(朝鮮人致来朝候覚)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「難波別院」の意味・わかりやすい解説

難波別院 (なんばべついん)

大阪市中央区にある真宗大谷派(東本願寺)の別院。本願寺派津村別院北御堂(きたのみどう)と称するのに対して,南御堂(みなみのみどう)ともいう。1594年(文禄3)本願寺教如は本願寺住持職を弟准如に譲って隠退,翌95年に摂津国西成郡渡辺の石山本願寺旧地に寺を営み,大谷本願寺または大坂本願寺と号したのが起源である。1598年(慶長3)現在地に移り,1603年堂舎を完成,これを難波御堂と称した。前年の1602年に,教如は徳川家康から京都七条烏丸に寺地を寄進され大谷派本願寺(東本願寺)を興したので,難波御堂を別院とした。1682年(天和2)には朝鮮使節の宿所に充てられた。1712年(正徳2)本堂を改築したが,これを機会に寺域を拡張し堂舎を整備した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「難波別院」の意味・わかりやすい解説

難波別院
なんばべついん

大阪市中央区北久太郎(きたきゅうたろう)町にある真宗大谷(おおたに)派の別院。「南御堂(みなみみどう)」とも称する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。1595年(文禄4)教如上人(きょうにょしょうにん)が創建し、1598年(慶長3)現在地に移った。初め大谷本願寺と号していたが、1602年大谷派本願寺が京都烏丸(からすま)に造営されてから別院となり、1671年(寛文11)輪番の制が敷かれた。諸堂宇が次々と建ち、寺域を広め、西本願寺の津村別院(「北御堂」と称する)と並んで市中の偉観となったが、1945年(昭和20)の戦災で旧観を失った。現本堂は61年(昭和36)の再建。境内には芭蕉(ばしょう)の枯野の句碑がある。

[瓜生津隆真]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「難波別院」の解説

難波別院

大阪府大阪市中央区にある真宗大谷派(東本願寺)の別院。本尊は阿弥陀如来。1595年、石山本願寺の旧地に大谷本願寺として創建、1598年現在地に移転。1602年、京都に東本願寺が建立され別院となった。別称、南御堂。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android