プロ野球選手(投手:右投右打)、監督。9月17日、東京都生まれ。帝京商業学校(現、帝京大学附属高校)時代は一塁手兼投手として活躍したが、甲子園出場はかなわなかった。いすゞ自動車を経て兵役につき、復員後は明治大学に進学して本格的に投手へと転向した。そこで急成長を遂げると同時に、監督天知俊一(あまちしゅんいち)(1903―1976)から伝授されたフォーク・ボールも会得、この変化球の元祖として、プロ球界を席捲(せっけん)することになる。1949年(昭和24)に天知が監督に就任した中日ドラゴンズ(1951~1953年は名古屋ドラゴンズ)へ入団し、1950年には早くも最多奪三振のタイトルを獲得、以降、6年連続で20勝以上をあげた。1951年から2年連続で沢村賞を受賞、1951年は最多勝利も獲得した。最高の活躍をみせたのは1954年で、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振とタイトルを独占して、球団に初の優勝をもたらした。日本シリーズでも西鉄ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)を相手に3勝し、日本一となった。この大車輪の活躍で、最高殊勲選手(現、最優秀選手)と3回目の沢村賞も受賞、また1955年にはノーヒットノーランを達成した。1959年から2年間投手兼監督となるが登板はなし。1961年大毎オリオンズ(毎日大映オリオンズ。現、千葉ロッテマリーンズ)に移り投手として復活、32試合に登板したが4勝6敗に終わり、引退した。1966年に阪神タイガース、1968年に2回目となる中日の監督を務めた。
[出村義和 2016年9月16日]
選手としての13年間の通算成績は、登板試合525、投球回2841と3分の2、215勝123敗、防御率2.23、奪三振1761、完投170、完封31。獲得したおもなタイトルは、最多勝利2回、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、沢村賞3回、ベストナイン1回。監督としての通算成績(4年)は、405試合、182勝215敗8分け、勝率4割5分8厘。1985年(昭和60)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。
[編集部 2016年9月16日]
『杉下茂著『フォークボール一代』(1988・ベースボール・マガジン社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新