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杉下茂 スギシタシゲル

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デジタル大辞泉の解説

すぎした‐しげる【杉下茂】

[1925~ ]プロ野球選手・監督。東京の生まれ。復員後、昭和24年(1949)中日に入団。フォークボールの元祖として活躍し、同29年には32勝をあげて初優勝に大きく貢献した。沢村賞を3回受賞。引退後は、中日・阪神の監督、巨人コーチを歴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

杉下茂 すぎした-しげる

1925- 昭和時代後期のプロ野球選手,監督。
大正14年9月17日生まれ。いすゞ自動車をへて,昭和24年中日に入団。魔球とよばれたフォークボールを駆使し,翌年から6年連続20勝以上をあげエースとして活躍。29年32勝し,チーム初優勝に貢献。日本シリーズでも3勝し,西鉄をくだす。実働11年,通算215勝123敗,防御率2.23。のち中日,阪神の監督をつとめた。60年野球殿堂入り。東京出身。明大卒。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

杉下茂
すぎしたしげる
(1925― )

プロ野球選手(投手:右投右打)、監督。9月17日、東京都生まれ。帝京商(現、帝京大学附属高)時代は一塁手兼投手として活躍したが、甲子園出場はかなわなかった。いすゞ自動車を経て兵役につき、復員後は明治大学に進学して本格的に投手へと転向した。そこで急成長を遂げると同時に、監督天知俊一(あまちしゅんいち)から伝授されたフォーク・ボールも会得、この変化球の元祖として、プロ球界を席捲(せっけん)することになる。1949年(昭和24)に天知が監督に就任した中日ドラゴンズ(1951~1953年は名古屋ドラゴンズ)へ入団し、1950年には早くも最多奪三振のタイトルを獲得、以降、6年連続で20勝以上をあげた。1951年から2年連続で沢村賞を受賞、1951年は最多勝利も獲得した。最高の活躍をみせたのは1954年で、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振とタイトルを独占して、球団に初の優勝をもたらした。日本シリーズでも西鉄ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)を相手に3勝し、日本一となった。この大車輪の活躍で、最高殊勲選手(現、最優秀選手)と3回目の沢村賞も受賞、また1955年にはノーヒットノーランを達成した。1959年から2年間投手兼監督となるが登板はなし。1961年大毎オリオンズ(毎日大映オリオンズ。現、千葉ロッテマリーンズ)に移り投手として復活、32試合に登板したが4勝6敗に終わり、引退した。1966年に阪神タイガース、1968年に2回目となる中日の監督を務めた。[出村義和]
 選手としての13年間の通算成績は、登板試合525、投球回2841と3分の2、215勝123敗、防御率2.23、奪三振1761、完投170、完封31。獲得したおもなタイトルは、最多勝利2回、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、沢村賞3回、ベストナイン1回。監督としての通算成績(4年)は、405試合、182勝215敗8分け、勝率4割5分8厘。1985年(昭和60)に野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。[編集部]
『杉下茂著『フォークボール一代』(1988・ベースボール・マガジン社)』

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