杉本村(読み)すぎもとむら

日本歴史地名大系 「杉本村」の解説

杉本村
すぎもとむら

[現在地名]住吉区杉本一―三丁目・浅香あさか一―二丁目・苅田かりた一〇丁目・山之内やまのうち五丁目など

現住吉区の南部中央に位置し、南は大和川。字谷端たにばた奴野田ののた・ショウブ堂からはしばしば弥生時代の土器や石器が出土しており、同時代の集落跡と推定されている。また古代には条里制が実施されていたとみられ、字名の一条分いちじようぶなどはその遺称と考えられる。また字名には東口ひがしぐち東尼ひがしあま西にしくち西尼にしあま西側にしがわなど東西に分れたものが多く、これらは中世の下地中分の遺称ではないかという(依羅郷土史)。古代は住吉郡に属したとみられるが、中世末にはかけ郡に属し、近世初期には住吉郡とするもの(慶長一〇年摂津国絵図)東成ひがしなり郡とするもの(元和初年摂津一国高御改帳)があり、延宝七年(一六七九)検地帳(山野家文書)東成郡とする。同帳の付紙によれば、住吉郡に確定したのは元禄八年(一六九五)

室町時代後期には五箇ごか庄に含まれており、同庄代官今井宗久が永禄一二年(一五六九)八月日付で出した禁制(「今井宗久書札留」今井文書)宛先に村名がみえる。天正一一年(一五八三)八月一日の今井宗久宛知行目録(「今井町史」所引)によれば、当村は「欠郡五ケ庄」に含まれており、宗久の知行高三〇九石余。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]滑川市杉本

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央東部に位置し、西は大榎おおえのき村、東は同川を境に上椿かみつばき(現魚津市)。村名の由来は早月川から引水する諸用水の取入口にあたり、水の本すいのもととよばれていたのが杉本に変化したと伝える。正保郷帳では高二八五石余、田方一七町九反余・畑方一町余、新田高七八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は杉本村同新村百姓中宛となっており、草高四二七石、免五ツ三歩、小物成は野役四五匁・鮎川役四匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は久左衛門、家数四二(百姓三六・頭振六)


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]木之本町杉本

明治一二年(一八七九)まで杉野すぎの村の枝郷で杉野下村と称した。南西流する杉野川右岸の山村。丹生にゆう谷沿いに西進し、北の墓谷はかたに山と南の田良原たらはら山の鞍部丹生峠越で下丹生村(現余呉町)へ至る道がある。六所ろくしよ神社は最澄が山中の勝地を卜し六座社と本地観音を創祀。また最澄創祀は五柱で、鎌倉時代布施氏が当地の地頭になったとき祖神を合祀したともいう(伊香郡志)。二月八日にオコナイを執行。墓谷山山腹に観音堂があり、大亀山南卦なんけ寺と号し、最澄自刻の千手観音を安置していたと伝える。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]岡崎市六供ろつく町 杉本

甲山こうさん寺のあるかぶと山の東麓に位置し、西は組屋敷の片端かたは(現亀井町)、南は誓願せいがん寺のある諏訪すわ山。総持そうじ寺領の一村。「三河国名勝志」によれば、吉祥寺という禅宗の寺があったが天正年中(一五七三―九二)に断絶したという。明和―安永(一七六四―八一)頃の杉本村の見取絵図(石原家文書)に百姓家一七軒が記されている。甲山の麓からの豊富な湧水が幾条も流れて、その周辺は早くから安定した水田であった。見取絵図に北側の道に沿って描かれた家々は、「寛永廿年百姓屋敷ニ成」と記されている。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]武生市上杉本かみすぎもと町・都辺とべ

丹生山中を流れる天王てんのう川流域にある。中世は山干飯やまかれい保の地。永正五年(一五〇八)一一月二四日の浦・山内馬借定書(西野家文書)に、山内やまのうち馬借の支配下として「とへ」とみえるのは当地である。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「戸部杉本村」と記され、高三一四・八八八石、先高二一九石・出分九五石余。正保郷帳では杉本村と記され、元禄郷帳から「山干飯杉本村」と「都部村」に分れて記される。両村ともに貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、正徳二年(一七一二)頃再び幕府領になった。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]天理市杉本町

平等坊びようどうぼう村東に所在。西大寺田園目録に「山辺郡八条四里四坪三段字荒木。スキモトニアリ」とあり、荒木あらき前栽せんざい町小字アラケか。仁安四年(一一六九)の大和国榲本荘住人等解(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)に「榲本御庄」とあり、建仁元年(一二〇一)の僧貞慶寄進状案(太上法皇御受戒記後附)に「寄進春日御社御供料田等事(中略)一所 水田一町椙本庄内 在大和国山辺郡内」、建治元年(一二七五)の東大寺油引付(東大寺文書)に「椙本すきもと油一斗五升二丁三反」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「椙本庄 天満社八月十日神事」とある。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]田子町石亀いしがめ 杉本

熊原くまはら川の上流左岸に位置し、鹿角かづの街道に沿う。東は石亀村、西は茂市もいち村、北は相米そうまい村に接する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に村名がみえ、蔵分一四〇・三石余、給分二二石余とある。家数は二二、馬二九疋を飼養。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数一〇。


杉本村
すぎもとむら

[現在地名]鯖江市杉本町・丸山まるやま町三―四丁目

日野川の右岸に位置し、北は吉江よしえ町・西番にしばん村、東は今立郡田所たどころ村、南はただす村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では立町たちまち村に含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android