東ゴート
ひがしごーと
Ostrogoths
東ゲルマン系のゴート人の一分派をなす集団。ゴート人は1世紀ごろビスワ川下流域に居住していたが、3世紀までにドナウ川下流域、黒海北西岸に移動し、東ゴート人と西ゴート人とに分かれた。370年ごろ東方から侵入してきたフン人に征服されたが、アッティラの死(453)によってフン帝国が崩壊したのち独立を回復し(474)、アマラー家の王権が確立した。テオドリック大王は、東ゴート人を率いて、483年にはローマ領のダキア、モエシアに、488年にはさらにイタリアに侵入し、オドアケルを破って東ゴート王国を建てた。テオドリックは、ローマ系文化人を登用し、東ゴート人とローマ系住民との融和を図り、王国の最盛期を実現したが、晩年には東ゴート系住民のアリウス派信仰と、ローマ系住民のカトリック信仰との対立が深刻化し、ローマ教皇との関係も悪化した。彼の死(526)後、ビザンティン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は征服戦争を開始し(535)、ゴート人はビティギス、ついでトティラを王にいただき、激しい抵抗を続けたが、555年、王国はついに滅亡した。
[平城照介]
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世界大百科事典(旧版)内の東ゴートの言及
【ゲルマン人】より
…そのためシュタムの多くは,タキトゥス時代のキウィタスに比し,実力ある特定の王または王族,特に軍指揮者を中心とした政治的・軍事的統制力の強い部族集団という性格を帯びていた。こうして4世紀に入ると,ゲルマン人の全体は,大きく分けて東ゲルマン,西ゲルマン,北ゲルマンの三つの部族群に分類されることとなるが,中でも東ゲルマン群に属する諸部族,すなわち東ゴートOstgoten(Ostrogothae),西ゴートWestgoten(Visigothae),バンダルVandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobarden等のシュタムの中へは,現在のロシア南部,東方ステップ地帯にいた種々の異民族・異人種の要素が色濃く混入したため,そこではいち早く騎馬を重視し弓矢を重視する東方独特の兵制,装備,戦術がとりいれられ,さらに古い首長制の代りに,軍王的性格をもつ新しい王権の伸張をみた。やがて民族大移動期に展開する東ゲルマン諸部族のあの活発かつ遠距離への迅速な移動の可能性は,一つにはこうした歴史的背景があったせいである。…
【ゴート語】より
…インド・ヨーロッパ語族の[ゲルマン語派]のうち東ゲルマン語に属し,現在は死語となっている。ゴート語の話し手であるゴート人は,1世紀の初めころまでに,南スウェーデンからバルト海をはさむ対岸のビスワ河口地帯に移住し,さらに東ゴート,西ゴートに分かれて南下し,2世紀の中ごろには黒海沿岸に到達したが,ゴート人のこのような早い時期におけるギリシア文化圏との接触により,4世紀の中ごろには西ゴートの司教ウルフィラによって聖書がギリシア語からゴート語に翻訳された。この聖書は,現在残されているゴート語資料の主要な部分をなしている。…
【民族大移動】より
… ゲルマン人についてみると,ゲルマニアの各地では,すでに2世紀の末ころから独自の移動が始まっており,古い政治的まとまりである[キウィタス]が漸次に崩壊して,それに代わるより大きないくつかのシュタムStamm,すなわち部族集団が現れ,これが単位となって遠く東方へ,また南方へと移動が活発化していた。東西両ゴート族がたまたまフン族に接触することとなったのは,彼らがバルト海沿岸から2世紀末に移動を始め,定住と移動を繰り返しつつ南東方に進み,ようやく4世紀にいたってドニエプル,ドナウ両川に挟まれた黒海北岸一帯で,東ゴート,西ゴートに分かれて定住していたからである。 移動集団の単位であるシュタムは,大きく分けて次の三つのグループとすることができる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」