改訂新版 世界大百科事典 「東京市電争議」の意味・わかりやすい解説
東京市電争議 (とうきょうしでんそうぎ)
1911年に民営会社から東京市電気局へ移管されて以降,37年までの間,東京市電の労働者は大小30回の争議を行い,勇名をはせた。とりわけ昭和期には,合法左翼の最大拠点として知られていた。おもな争議は次のとおりである。(1)1911年12月,東京市電気局へ移管される際,民営会社解散時の配当金をめぐる不満で,労働者は大晦日から2日間のストライキに入った。要求を部分的に実現して争議は終結するが,これを支援した片山潜をはじめ約60人が検挙された。(2)全国的に労働組合が簇生(そうせい)する19年,東京市電を中心に日本交通労働組合が発足し,12月から翌20年3月にかけて3回の争議がおこった。労働者の要求は人格の尊重ほか待遇の改善であったが,当局は大量解雇をもって応じ,労働者側は敗北し労働組合は崩壊した。その後当局は協調的従業員団体の育成に努めた。しかし労働者の間には日本労働組合評議会(評議会)など左派の影響が広がった。(3)29年当局が人件費削減を発表すると,労働者は既存の従業員団体を東京交通労働組合(東交)に改組して反対運動に取り組み,12月と翌30年4月に争議に突入,要求の一部を実現させた。(4)昭和恐慌下,経営危機に瀕した電気局がいっそうの人件費削減を計画すると,東交は31年12月に,1924年以来大阪市電の労働組合(大交)などとともに組織していた日本交通労働総同盟によるゼネストを企てた。警察の介入によってこのゼネストは挫折する。(5)32年度に当局は本格的な経営更生計画を具体化し,東交は10月にストライキを構えてこれに反対しようとした。しかしスト突入の直前,労働争議調停法制定以来初めての強制調停により,争議行為未発生のまま130人解雇をもって収束した。(6)34年8月,当局が経営悪化を理由に全従業員をいったん退職させ低賃金で再雇用する計画を発表すると,東交は9~10月に20日間にわたるストライキを実施して抵抗した。このときも強制調停がなされ,争議は労働者の敗北となった。このように争議が頻発した背後には,電気局の放漫な経営体質があったといわれる。なお上にあげた1930年代の争議には,従業員総数1万人のうち,実に9割以上の労働者が参加した。
執筆者:三宅 明正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報