改訂新版 世界大百科事典 「東洋史学」の意味・わかりやすい解説
東洋史学 (とうようしがく)
日本における歴史研究および歴史教育上の一分野。日本史(国史)学,西洋史学と並立して学会や大学の課程での専門分野を形成する。なお,韓国では,韓国史学,西洋史学とともに,日本史を含む東洋史学が並立する。中国文明の多大の影響と恩恵を受けてきた日本では,早くから中国史の知識を教養の一部とし,多くの中国史籍に親しんできた。そこから価値ある史書の書抄・翻刻が行われ,またその文章読解や諸制度の解説などがなされ,その成果は今日の研究を利するものが少なくない。しかし主として明治以前においては,あくまで漢学の一環としてなされたにすぎなかった。明治になって近代国家の形成が進むと,欧米資本主義列強のアジア進出という情勢とからんで朝鮮,中国などアジア諸国との関係を新たに設定する必要が生じた。こうした政治的背景のもとで朝鮮,中国,北アジアなどの歴史を近代歴史学として研究・叙述しようとする風潮が生まれ,また西洋史中心であった外国史のなかに東洋史を独立して設けようとする動きが高まった。《支那通史》(1880-90)の著者として知られる那珂通世(みちよ)の提議により,1894年中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することとし,これに応じて桑原隲蔵(じつぞう)の《中等東洋史》などが刊行された(1898)。東京帝国大学では初め漢文学科に包摂されていた支那史学が独立し,一方西洋史中心の史学科に東洋史学講座が新設され,やがて両者が合体して東洋史学科となった(1918)。この経過が示すように東大では漢学から脱皮してゆきつつ,欧米の史学方法をとりこんで,近代歴史学としての東洋史学が成立した。創立期の東大東洋史学を代表する白鳥庫吉は,欧米風の方法に立って日本・中国の古典の信憑性を強く批判し,また西域・満鮮の諸民族の研究に先鞭をつけた。
一方1907年に開設された京都帝国大学東洋史学講座には在野の内藤湖南,ついで東大漢文学出身の桑原が招聘された。京大では中国哲学,中国文学とともに伝統的学問をふまえた,いわゆるシナ学的学風を創出した。ことに清朝考証学の成果を重んじて中国史の発展を内在的にとらえる内藤の方法は白鳥の学風と大きな対照をなした。白鳥と内藤の学問は,欧米の東洋学に造詣の深かった桑原とともにその門下生に絶大な影響を与え,日本の東洋史研究を質量ともに発展させ,その水準は世界に誇るに足るものとなった。両大学の他公私の各大学に講座が設けられてゆき,静嘉堂文庫,東洋文庫,満州地理歴史調査部,東方文化学院東京・京都両研究所(現在の東大東洋文化研究所および京大人文科学研究所東方部)などの機関が開置された。
第1次世界大戦後,日本の大陸政策が深みに入っていくにつれて,東洋史学も精緻さと専門化の度合を加えたが,国策を批判し,あるいはこれに迎合し,また政治的中立を守るなどその現実政治への対応は一様ではない。ただ,全体として大陸侵略政策の方向に引きずられる結果となったのは否定しがたい。20年代以後,民衆史・社会経済史への関心が高まり,一部にはマルクス主義の影響が強まった。これらを背景に30年前後には講壇歴史学に不満をもつ若い学徒が新しい学問の樹立をはかった。東京における歴史学研究会の創設(1932),京大における専門雑誌《東洋史研究》の発刊(1935)などがそれである。前者は単なる考証学の枠をこえた社会史を目ざし,後者はシナ学的文化主義からの脱出をはかるものであった。しかしこれらの試みも,当時中国大陸で進行しつつあった事態との間には埋めがたいギャップがあった。
敗戦は東洋史学にきびしい反省を迫り,そこからさまざまな再建の道が講ぜられた。第1に,再開された歴史学研究会は,中華人民共和国の成立が中国社会の進歩性を証明するものだとし,原始から現代に至る中国史の時代区分を史的唯物論の定式によって画定しようとした。これは内藤湖南の立てた文化史的時代区分法とくいちがうところから,学界に論争をもたらした。また奴隷制生産様式という範疇を中国古代に適用することの可否をめぐって議論が闘わされ,そこから中国史を世界史の一般理論でとらえることの困難さが認識された。こうして中国史の時代区分法は学界に定説をみないまま今日に至り,中国史把握の全般的方法についても,史的唯物論の有効性が問われながらもそれを越える方法が見いだされていない。こうした方法論的困難さの半面,研究資料は東洋史学全般において格段に豊富となった。その背景にはアジア諸民族の独立が,史料の発見,保存,研究,刊行を促進したことがある。ことに中国では,20世紀初頭以来の殷墟,漢簡,敦煌文献などの大発見に引きつづき,中華人民共和国成立後さらにおびただしい重要発見が相次ぎ,在来史料だけにたよる研究ではもはや不十分となった。
戦後東洋史学の第2の特徴は,地域研究的視点が重んぜられることにあり,中国史では華北と華中・華南の地域差を重視するようになったが,他方では中国中心の東洋史から脱却して,朝鮮,インドシナ,インド,中央アジア,西アジアなど各民族・文化圏の現地語に基づく専門研究が進展し,大きな成果を挙げている。もはや東洋史学という範疇でこれらを総括することが困難な状況にあり,京大で東洋史学から独立して西南アジア史講座が開設されたのはこうした趨勢を物語る。学術上の国際交流が戦前と比較にならぬくらい活発化したのも,近年の特徴である。総じて対象をイデオロギーから解放して実態的にとらえるという最近の学問傾向は東洋史学をも規定しつつあり,それは科学としての進歩を示すとともに,一面では史料主義や研究の細分化を生んで,歴史の全体像をえがくことを困難にしている。情報処理のためのコンピューターの導入もすでに開始され,かつて語彙索引作成のために費やされた労苦は今や過去の物語と化しつつある。しかし,東洋史学の学としての存在理由が,今や国策にも政治上の主義主張にもなく,あるいは単なる史料研究にもとどまりえないとすれば,それはどこに見いださるべきか,その解答はまだ明確でないように思われる。
→中国学 →東洋学
執筆者:谷川 道雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報