桑原隲蔵(読み)クワバラジツゾウ

デジタル大辞泉 「桑原隲蔵」の意味・読み・例文・類語

くわばら‐じつぞう〔くはばらジツザウ〕【桑原隲蔵】

[1871~1931]東洋史学者。福井の生まれ。京大教授日本における東洋史学確立。特に東西交渉史西域研究多く業績を残した。著「蒲寿庚ほじゅこうの事蹟」「東洋文明史論叢」など。

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精選版 日本国語大辞典 「桑原隲蔵」の意味・読み・例文・類語

くわばら‐じつぞう【桑原隲蔵】

  1. 東洋史学者。福井県出身。東京帝国大学卒。第三高等学校、東京高等師範学校京都帝国大学の教授を歴任。実証を重んじ、東西交渉史、中国文化史を研究。著「蒲寿庚(ほじゅこう)の事跡」「中等東洋史」など。明治三~昭和六年(一八七〇‐一九三一

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20世紀日本人名事典 「桑原隲蔵」の解説

桑原 隲蔵
クワバラ ジツゾウ

明治〜昭和期の東洋史学者 京都帝国大学名誉教授。



生年
明治3年10月10日(1870年)

没年
昭和6(1931)年5月24日

出生地
越前敦賀(福井県敦賀市)

学歴〔年〕
帝大文科大学(現・東大)漢学科〔明治29年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔明治43年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞〔大正12年〕「西域人蒲寿庚の事蹟」

経歴
三高、東京高師の各教授、京都帝大講師を経て、明治42年教授。大学院時代の明治31年「中等東洋史」(2巻)を書いて名を知られ、34年史学会評議員。狩野直喜、内藤湖南らとともに東洋史学の樹立貢献。この間、40〜42年中国に留学。シルクロードの地名「比定」について東大の白鳥庫吉、藤田豊八らと論争。大正12年「西域人蒲寿庚の事蹟」で学士院賞受賞。昭和5年退官し、6年名誉教授。他の著書に「東洋史教授資料」「東西交通史論叢」「東洋文明史論叢」「支那法制史論叢」、「桑原隲蔵全集」(全5巻・別巻1 朝日新聞社)などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑原隲蔵」の意味・わかりやすい解説

桑原隲蔵(くわばらじつぞう)
くわばらじつぞう
(1870―1931)

東洋史学者。福井県敦賀(つるが)に生まれ、京都府立中学校、第三高等中学校を経て、東京帝国大学漢学科を卒業し、引き続き大学院に入り東洋史を専攻した。当時まだ東洋史の学科がなく、この名が定着するには実は大学院時代に書いた名著『中等東洋史』が果たした役割が大きかったといわれる。第三高等学校、東京高等師範学校の教授となり、2年間清(しん)国に留学し、各地を旅行して帰国し、京都帝国大学教授に任ぜられ、東洋史を講じた。その学風は科学的に正確な歴史学の建設に志し、従来のシナ史から、漢民族と周囲諸民族との関連を重視した東洋史、さらには東洋と西方との交渉へと、研究範囲を広げた。『宋(そう)末の提挙市舶西域人蒲寿庚(ほじゅこう)の事蹟(じせき)』が代表作で、学士院賞を受けた。ほかに多数の著述があり、なかでも「大宛(だいえん)国の貴山城に就いて」の論文を出し、以後東京の白鳥庫吉(くらきち)・藤田豊八(とよはち)両博士と、華々しい論争を展開したのは有名である。

[宮崎市定]

『『桑原隲藏全集』5巻・別冊1(1968・岩波書店)』『桑原隲藏著『中国の孝道』(講談社学術文庫)』



桑原隲蔵(くわはらじつぞう)
くわはらじつぞう

桑原隲蔵

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改訂新版 世界大百科事典 「桑原隲蔵」の意味・わかりやすい解説

桑原隲蔵 (くわばらじつぞう)
生没年:1870-1931(明治3-昭和6)

東洋史学者。福井県出身。1896年に帝国大学漢学科を卒業,東京高師教授をへて京都帝大教授となる。ヨーロッパの史学研究法をとり入れて東洋史学の建設につとめ,初めは《中等東洋史》などによって東洋史教育に功績をのこし,京大赴任以後は,法制史,東西交通史などの分野で堅実な業績を挙げた。名著《蒲寿庚の事蹟》をはじめとする全著作は《桑原隲蔵全集》(1968)に収められた。桑原武夫はその息である。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桑原隲蔵」の解説

桑原隲蔵 くわばら-じつぞう

1871*-1931 明治-昭和時代前期の東洋史学者。
明治3年12月7日生まれ。桑原武夫の父。三高,東京高師の教授をへて明治42年京都帝大教授。科学的歴史学をとなえ,東洋史学の確立に貢献。中国史と東西交渉史の分野で業績をのこした。大正15年「宋(そう)末の提挙市舶西域人蒲寿庚(ほ-じゅこう)の事蹟」で学士院賞。「桑原隲蔵全集」がある。昭和6年5月24日死去。62歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。帝国大学卒。

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百科事典マイペディア 「桑原隲蔵」の意味・わかりやすい解説

桑原隲蔵【くわばらじつぞう】

東洋史学者。越前(えちぜん)国敦賀(つるが)の出身。東大漢学科卒。京大教授。日本における近代東洋史学の開拓者。特に東洋文明,東西交渉史を研究。著書《東西交通史論叢》《東洋文明史論叢》。長男は仏文学者桑原武夫〔1904-1988〕。
→関連項目宮崎市定

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桑原隲蔵」の意味・わかりやすい解説

桑原隲蔵
くわばらじつぞう

[生]明治3(1870).12.7. 敦賀
[没]1931.5.24. 京都
東洋史学者。製紙業者久兵衛の次男として生れ,1896年東京大学漢学科を卒業。その後,旧制第三高等学校,さらに東京高等師範学校を経て,1909年京都大学教授となった。科学的史学の樹立を志し,実証的学風を形成して,日本の東洋史学の国際的地位を高めた。 23年『蒲寿庚の事蹟』によって帝国学士院賞を受賞。その学術論文数は 110編に及ぶ。『桑原隲蔵全集』がある。

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367日誕生日大事典 「桑原隲蔵」の解説

桑原 隲蔵 (くわばら じつぞう)

生年月日:1870年10月10日
明治時代-昭和時代の東洋史学者。京都帝国大学教授
1931年没

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世界大百科事典(旧版)内の桑原隲蔵の言及

【東洋史学】より

…こうした政治的背景のもとで朝鮮,中国,北アジアなどの歴史を近代歴史学として研究・叙述しようとする風潮が生まれ,また西洋史中心であった外国史のなかに東洋史を独立して設けようとする動きが高まった。《支那通史》(1880‐90)の著者として知られる那珂通世(みちよ)の提議により,1894年中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することとし,これに応じて桑原隲蔵(じつぞう)の《中等東洋史》などが刊行された(1898)。東京帝国大学では初め漢文学科に包摂されていた支那史学が独立し,一方西洋史中心の史学科に東洋史学講座が新設され,やがて両者が合体して東洋史学科となった(1918)。…

※「桑原隲蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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