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桑原隲蔵 くわばらじつぞう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

桑原隲蔵
くわばらじつぞう

[生]明治3(1870).12.7. 敦賀
[没]1931.5.24. 京都
東洋史学者。製紙業者久兵衛の次男として生れ,1896年東京大学漢学科を卒業。その後,旧制第三高等学校,さらに東京高等師範学校を経て,1909年京都大学教授となった。科学的史学の樹立を志し,実証的学風を形成して,日本の東洋史学の国際的地位を高めた。 23年『蒲寿庚の事蹟』によって帝国学士院賞を受賞。その学術論文数は 110編に及ぶ。『桑原隲蔵全集』がある。

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デジタル大辞泉の解説

くわばら‐じつぞう〔くはばらジツザウ〕【桑原隲蔵】

[1871~1931]東洋史学者。福井の生まれ。京大教授。日本における東洋史学を確立。特に東西交渉史、西域の研究に多くの業績を残した。著「蒲寿庚(ほじゅこう)の事蹟」「東洋文明史論叢」など。

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百科事典マイペディアの解説

桑原隲蔵【くわばらじつぞう】

東洋史学者。越前(えちぜん)国敦賀(つるが)の出身。東大漢学科卒。京大教授。日本における近代東洋史学の開拓者。特に東洋文明,東西交渉史を研究。著書《東西交通史論叢》《東洋文明史論叢》。
→関連項目宮崎市定

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

桑原隲蔵 くわばら-じつぞう

1871*-1931 明治-昭和時代前期の東洋史学者。
明治3年12月7日生まれ。桑原武夫の父。三高,東京高師の教授をへて明治42年京都帝大教授。科学的歴史学をとなえ,東洋史学の確立に貢献。中国史と東西交渉史の分野で業績をのこした。大正15年「宋(そう)末の提挙市舶西域人蒲寿庚(ほ-じゅこう)の事蹟」で学士院賞。「桑原隲蔵全集」がある。昭和6年5月24日死去。62歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。帝国大学卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

くわばらじつぞう【桑原隲蔵】

1870‐1931(明治3‐昭和6)
東洋史学者。福井県出身。1896年に帝国大学漢学科を卒業,東京高師教授をへて京都帝大教授となる。ヨーロッパの史学研究法をとり入れて東洋史学の建設につとめ,初めは《中等東洋史》などによって東洋史教育に功績をのこし,京大赴任以後は,法制史,東西交通史などの分野で堅実な業績を挙げた。名著《蒲寿庚の事蹟》をはじめとする全著作は《桑原隲蔵全集》(1968)に収められた。桑原武夫はその息である。【礪波 護】

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大辞林 第三版の解説

くわばらじつぞう【桑原隲蔵】

1870~1931) 東洋史学者。福井県生まれ。京大教授。東洋史教育の基礎を確立し、東西交通史・文明史・法制史などを研究。著「蒲寿庚ほじゆこうの事蹟」「東西交通史論叢」「東洋文明史論叢」など。

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世界大百科事典内の桑原隲蔵の言及

【東洋史学】より

…こうした政治的背景のもとで朝鮮,中国,北アジアなどの歴史を近代歴史学として研究・叙述しようとする風潮が生まれ,また西洋史中心であった外国史のなかに東洋史を独立して設けようとする動きが高まった。《支那通史》(1880‐90)の著者として知られる那珂通世(みちよ)の提議により,1894年中等学校の外国史を西洋史と東洋史に分けて教授することとし,これに応じて桑原隲蔵(じつぞう)の《中等東洋史》などが刊行された(1898)。東京帝国大学では初め漢文学科に包摂されていた支那史学が独立し,一方西洋史中心の史学科に東洋史学講座が新設され,やがて両者が合体して東洋史学科となった(1918)。…

※「桑原隲蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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