東洋学とは東洋を対象とする研究のことで,英語のOrientalism(オリエンタリズム)またはOriental Study(オリエント学)の訳語に当たる言葉であり,東方学とよぶこともある。実際の用例としては,単に東洋の事物万般に関する研究をさすのではなく,東洋の言語,文学,歴史,宗教,哲学,学術,美術,音楽など,狭義の文化を研究する学問を意味し,文献学的ないしは歴史学的な手法で研究されることが多い。東洋学が対象とする範囲は,ヨーロッパ人が東洋と称した地域であるから,初めはオリエントの地方,つまり近東ともよばれた西アジアとエジプト方面のみをさしたのであって,ヨーロッパ人の地理的知識の発展と歴史的交渉の舞台の拡大につれて,その範囲はしだいに広がり,現在ではアジア全域と北アフリカをおおうにいたり,それとともに,東洋学という名称それ自体の再検討が始められている。と同時に,オリエンタリズム,オリエント学には18世紀以降のヨーロッパ人のオリエントに対する異国趣味と植民地支配が色濃く反映されており,これに対する強い批判も提起されている。
これらのことは例えば,ロンドン大学のかつての東洋学学校School of Oriental Studiesが今では東洋アフリカ学学校School of Oriental and African Studiesに改称されたことからも分かる。さらに1873年にパリで第1回会議を開いた東洋学に関する最も権威ある学会連合である国際オリエント学会議International Congress of Orientalistsは,おもにヨーロッパ各地で開催されてきたが,1973年に第29回会議を創立100周年を記念してパリで開いた際,国際アジア・北アフリカ人文科学会議International Congress of Human Sciences in Asia and North Africaと改称されたのは,オリエントOrientという語がヨーロッパを中心とする考え方にもとづいており,第2次世界大戦以後,アジア・アフリカ諸民族の間に澎湃(ほうはい)としておこったナショナリズムの波からみて,不適当と考えられたからであった。ちなみに第31回会議は83年に初めて極東の地たる東京と京都で開かれた。なお,日本で19世紀末,日清戦争後に成立した東洋史という学問は,西洋史とあわせて世界史を構成し,日本史と対比されてきた。つまり東洋史のなかに日本史は含まれないが,ヨーロッパにおけるオリエント学のなかには,近東を対象とした狭義のオリエント学,インド学,中国学などと並んで日本学(日本研究)も含まれている。
ヨーロッパにおけるオリエント学は,中世末期から近代初期にかけての神学の中から芽ばえた。旧約聖書をヘブライ語の原文で読もうとする気風につづいて,アラブの手で継承保持されているギリシアの哲学や学術を学ぶ必要からアラビア学が成立し,13世紀にローマ教皇の勧告により,パリ,ローマ,サラマンカ,ボローニャ,オックスフォードの大学にアラビア語の講座がおかれた。18世紀以後,このアラビア学からセム学が独立し,19世紀になると,アッシリア,バビロニアの古代文字解読がきっかけとなってアッシリア学が成立し,シャンポリオンのヒエログリフ解読に源を発したエジプト学が勃興し,やがてアラビア学の一部であったイスラム研究が活発化するにつれてイスラム学が成立した。
一方,産業革命を経たイギリスが18世紀以後に行ったインドの植民地化は,サンスクリットおよび南アジアの諸語の研究を促進してインド学が成立し,やがてイラン学が分立した。またオスマン・トルコとヨーロッパとの関係が複雑化するにつれ,トルコ学が成立し,このトルコ学からモンゴル学が分立し,主にロシアの学者によって研究が進められた。インドで勢力争いでイギリスに敗れたフランスは,インドシナの経略に向かい,1887年に仏領インドシナを成立させるや,極東地域の研究を重視し,1900年にはハノイに極東学院を創立し,東洋学者および探検家の養成につとめ,極東全般の研究に貢献した。
極東の広大な地域を占めた中国を対象とする中国学についていえば,16世紀後半に書かれたポルトガル人J.deバルロスの《毎十年史》における中国に関する詳しい記述を別格とすると,1585年に出版されたスペイン人G.メンドサの《シナ大王国記》こそが最初の業績であり,17世紀以後はフランスのイエズス会士たちによって精力的に推進された。そして真に学問的な近代中国学の始祖と目されるのは,19世紀の学者フランスのA.レミュザとドイツのH.J.クラプロートであり,イギリスのA.ワイリーも中国に滞在して新しい知見を本国に伝達した。20世紀の初頭以来,ヨーロッパ諸国が中央アジアに探検隊を派遣し,P.ペリオやスタインらが敦煌から漢文文献のみならず,チベット語やホータン語などで書かれた大量の古写本や古文書をパリとロンドンに持ち帰ったことから,敦煌学者とよばれる研究者も輩出したが,彼らも東洋学の一員なのである(敦煌学)。日本学は,16世紀のカトリックの宣教師によって基礎がきずかれ,19世紀になるとヨーロッパ人の日本に対する関心は並々ならぬものとなっていた。1873年にパリで創立された国際東洋学者会議の創設に最も重要な役割を果たし,会長をつとめたのは,日本学者のL.deロニーであり,第1回会議の議事録のほぼ3分の1は日本研究に関する論題で占められていたのである。
→オリエント学 →東洋史学
執筆者:礪波 護
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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