東釧路貝塚
ひがしくしろかいづか
[現在地名]釧路市貝塚一丁目
JR根室本線東釧路駅敷地に接する南側台地に位置する。釧路川の河口から北東へ三・五キロ、釧路湿原の沖積低地に面する標高一三―二五メートルの海成段丘先端部に沿って広がる。かつての縄文海進時における古釧路湾の湾口に近い。文献上に最初に登場した明治四三年(一九一〇)当時は茂尻矢貝塚とよばれ、その後、昭和七年(一九三二)遺跡の北側にある東釧路駅の名から東釧路貝塚と名付けられた。同四五年国指定史跡となる。東側に沢を挟んで東釧路第二遺跡・同第三遺跡がある。
大正時代から二〇回を超える調査が行われており、昭和三三年から同四六年にかけての発掘調査で遺跡の性格がほぼ明らかになった。縄文時代早期から晩期、続縄文・擦文・近世アイヌ文化の時代にかけて一四の文化層をもつ集落跡・墓跡で、なかでも縄文前期の貝塚の存在がこの遺跡を特徴づけている。前期の貝塚は大小一一のブロックに分れ、東西一二〇メートル・南北九〇メートルの範囲にU字状に分布している。台地上の平坦面に大きな二つのブロック(東西二〇メートル・南北三三メートル)を配し、東側に小ブロックが点在し、さらに北側斜面に流れ落ちるように四つのブロックが認められる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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ひがしくしろかいづか【東釧路貝塚】
北海道釧路市貝塚にある縄文時代早期から近世にわたる、14層以上をもつ複合遺跡。とくに縄文時代前期の貝塚としては、北海道内では最大規模。縄文時代前期の貝塚の大きさは、東西120m、南北90mの範囲で大小あわせて11のブロックが確認されている。厚さ1m前後の貝層はアサリが全体の70%を占め、その他、カキ、オオノガイに加え、暖海性のアカガイ、シオフキなども含まれている。トド、アシカなどの海獣類や魚類、鳥類などの骨、また、押型文土器も出土している。貝層中にはイルカの頭骨を放射状に配列したり、トド、犬を埋葬した跡があるなど、宗教性をうかがわせる面も見られる。下層からは縄文時代早期の小貝塚、土器および多数の屈葬人骨が出土している。1970年(昭和45)に11地点の貝塚が国指定史跡となり、1976年(昭和51)にはさらに遺跡の範囲が確認され、追加指定されている。JR根室本線東釧路駅から徒歩すぐ。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の東釧路貝塚の言及
【祭祀遺跡】より
… 狩猟祭祀の遺跡としては,ヨーロッパ旧石器時代の壁画洞窟・岩陰が顕著な存在であって,獲物の身に槍がささった状況を表す表現があるだけでなく,踊りまわったネアンデルタール人たちの足跡が床面に鮮明に残っている遺跡(フランスのテュク・ドードゥベールTuc d’Audouber洞窟,後期旧石器時代)もある。洞窟内にクマの頭骨を集積した実例(スイスのドラッヒェン洞窟Drachenloch)は,日本の縄文文化の,イルカの頭骨を半円形に配したもの(釧路市東釧路貝塚),イノシシ(幼獣が多い)の下顎骨のみ118頭分を穴に埋めたもの(山梨県金生(きんせい)遺跡),オホーツク文化のクマの頭骨を祭壇上に集めたもの(網走市[モヨロ貝塚])と同様,狩猟祭祀との関連が説かれている。 農耕祭祀にかかわるものとしては,西アジアの初期新石器時代の集落に,独立した建物(パレスティナのイェリコ遺跡),あるいは建物の一部(トルコのチャタル・ヒュユク遺跡)が祠堂として使われたものがある。…
※「東釧路貝塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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