新撰 芸能人物事典 明治~平成 「杵屋正邦」の解説
杵屋 正邦
キネヤ セイホウ
- 職業
- 邦楽作曲家 長唄三味線方
- 本名
- 吉川 博久(ヨシカワ ヒロヒサ)
- 別名
- 前名=杵屋 正四郎(2代目)
- 生年月日
- 大正3年 10月7日
- 出生地
- 東京市 本所区緑町(東京都墨田区)
- 学歴
- 高小卒
- 経歴
- 長唄三味線方である初代杵屋正四郎の長男として生まれる。大正12年8歳の時に関東大震災に遭い、一家で伯父の杵屋六蔵のいる栃木県に疎開した。東京に戻ってきたある日、ラジオから流れてきた岡安喜三郎の「五条橋」の演奏を聴いて“うまい弾き方だ”と漏らしたところ、父から“この三味線のうまさがわかるか”といわれ、以来長唄の三味線方になるため父から厳しい修練を受けた。尋常小学校を出るとそのまま長唄三味線方となる一方、貧乏で本が買えないために古本屋に通って音楽書を立ち読みし、西洋音楽の知識などを身につけた。20歳の時に父が亡くなり、2代目杵屋正四郎を襲名。昭和10年栗島すみ子が結成した栗島舞踊劇団に加わり、11年映画「緋紗子の話」を脚色した同劇団の舞台主題歌として処女作「恋慕小路」を作曲。以来、邦楽作品の作曲に取り組み、17年第1回杵屋正四郎作品発表会を開催。18年3月5代目杵屋正次郎襲名の話が持ち込まれ、その前提条件として杵屋正邦に改名。同じ月には第2回作品発表会を開くも、11月衛生兵として出征。除隊後、長野県で終戦を迎えた。23年から乗松明広に師事して音楽理論、和声学、対位法、作曲法といった洋楽の基礎を修めつつ、邦楽作曲に邁進。この頃、再び5代目正次郎の襲名問題が持ち上がったが、作曲に専念するために固辞した。27年ラジオ東京(TBS)開局前夜祭のための委嘱で大木惇夫作詞による「愛の誕生」を作曲、また大阪歌舞伎座公演「乱菊物語」の舞台音楽を手がけるなど作曲家として本格的に活動を始め、同年度の芸術選奨文部大臣賞も受賞した。31年、32年「野鳥三態」「雲三題」により2年連続で芸術祭奨励賞。31年より自作発表会などを除いて舞台での演奏活動から身を退いて邦楽界初の作曲専門家となり、コロムビア・レコードと専属作曲家の契約を結んだ(51年まで)。49年からは若手の邦楽演奏家を育てるため、毎年新作を書き下ろして自作を演奏させる無料演奏会・正邦楽苑をスタートさせた。また30年の創設以来、NHK邦楽技能者育成会の講師も務めた。39年現代邦楽作曲家連盟創設に伴い副委員長、41年委員長、のち会長を歴任。晩年は人工透析を続けながら活動を行い、生涯におよそ1400曲にのぼる作品を遺した。他の作品に「秋草恨一曲」「去来」「綺羅」など。
- 受賞
- 芸術選奨文部大臣賞(第3回)〔昭和27年〕 紫綬褒章〔昭和55年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和61年〕 芸術祭賞奨励賞(第11回・12回・21回)〔昭和31年・32年・41年〕「野鳥三態」「雲三題」「新版酒餅合戦」,宮城賞(第1回)〔昭和32年〕「野鳥三態」,芸術祭賞優秀賞(第25回)〔昭和45年〕「太棹と打楽器のための〈コンポジション〉」,モービル音楽賞(第5回)〔昭和50年〕,放送文化基金賞(個人部門賞 第4回)〔昭和53年〕,イタリア賞(大賞 第1回)「山姥」
- 没年月日
- 平成8年 2月16日 (1996年)
- 家族
- 父=杵屋 正四郎(初代)
- 親族
- 伯父=杵屋 六蔵
- 伝記
- 杵屋正邦における邦楽の解体と再構築 吉崎 清富 著(発行元 出版芸術社 ’01発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報