松前慶広(読み)まつまえよしひろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松前慶広」の意味・わかりやすい解説

松前慶広
まつまえよしひろ
(1548―1616)

松前藩初代藩主。蠣崎季広(かきざきすえひろ)の第3子。天文(てんぶん)17年9月3日生まれ。幼名を新三郎と称し、1582年(天正10)家督を相続した。90年豊臣(とよとみ)秀吉の奥州仕置を契機に中央接近策を展開、同年上洛(じょうらく)して秀吉に謁した。翌年の九戸政実(くのへまさざね)の乱には秀吉軍について参陣、さらに92年(文禄1)秀吉の朝鮮侵略が開始されると、いち早く肥前名護屋(なごや)(佐賀県)の秀吉の陣中に馳(は)せ参じ、翌年秀吉より蝦夷(えぞ)地支配公認の朱印状を得た。これにより安東(あんどう)氏の支配を脱し、蝦夷(えぞ)島主たる地位を得たが、99年(慶長4)に氏を松前と改め、1604年(慶長9)徳川家康より蝦夷地交易の独占権を公認する黒印(こくいん)状を得て、近世大名としての地位を確立した。慶広は、武将というより政治力と外交能力にたけた政治家というべく、松前藩の成立期に果たした役割はすこぶる大きい。元和(げんな)2年10月12日没。

[榎森 進]

『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』『金井圓・村井益男編『新編物語藩史 第1巻』(1975・新人物往来社)』『『松前町史 通説編 第1巻 上』(1984・松前町)』

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改訂新版 世界大百科事典 「松前慶広」の意味・わかりやすい解説

松前慶広 (まつまえよしひろ)
生没年:1548-1616(天文17-元和2)

松前藩初代藩主。蠣崎(かきざき)季広の第3子。幼名を天方丸,新三郎と称し,1582年(天正10)家督を相続した。90年豊臣秀吉の奥州仕置を契機に中央接近策を展開,同年上洛して秀吉に謁し,翌年九戸政実の乱には秀吉軍について参陣,92年(文禄1)秀吉の朝鮮侵略が開始されるといち早く肥前名護屋の秀吉の陣中にはせ参じ,翌93年秀吉より蝦夷地支配公認の朱印状を得た。これにより安東氏の支配を脱し,蝦夷島主たる地位を得たが,99年(慶長4)氏を松前と改め,1604年徳川家康より蝦夷地交易の独占権を公認する黒印状を得て近世大名としての地位を確立した。慶広は,武将というより政治力と外交能力にたけた政治家というべく,松前藩の成立期に果たした役割はすこぶる大きい。
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朝日日本歴史人物事典 「松前慶広」の解説

松前慶広

没年:元和2.10.12(1616.11.20)
生年:天文17.9.3(1548.10.4)
安土桃山・江戸初期の武将。松前藩初代藩主。蠣崎季広の第3子。母は旧箱館主河野季通の娘。蝦夷島の蠣崎氏は,2世光広以降4世季広の代まで出羽檜山(秋田県能代市)安東氏の被官(代官)の立場にあったが,慶広は天正18(1590)年豊臣秀吉の奥羽仕置を契機に中央接近策を展開,同年上洛して秀吉に謁し従五位下・民部大輔に叙任され,次いで文禄1(1592)年秀吉が朝鮮侵略を開始するや,翌年1月肥前名護屋の本営に馳せ参じ,秀吉から蝦夷島支配を公認する朱印状を交付された。その後慶長4(1599)年氏を松前と改め,9年家康よりアイヌ交易独占を公認する黒印状を交付され,かつ改めて従五位下・伊豆守に叙任されることによって近世大名としての地位を確立した。<参考文献>『新羅之記録』,『松前町史』通説編1巻上,史料編1巻

(榎森進)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「松前慶広」の解説

松前慶広
まつまえよしひろ

1548.9.3~1616.10.12

織豊期~江戸初期の武将・大名。松前藩初代藩主。蠣崎季広(かきざきすえひろ)の子。志摩守のち伊豆守。1590年(天正18)上洛して豊臣秀吉に謁見。翌年九戸政実(くのへまさざね)の乱に秀吉方として参戦。93年(文禄2)秀吉の朝鮮出兵につき肥前国名護屋に赴き,秀吉から船役徴収権をえる。これにより檜山(ひやま)安藤氏から自立し,蝦夷島主となる。99年(慶長4)それまでの蠣崎姓を松前に改める。1604年徳川家康からアイヌ交易独占権を認められ,藩の基礎を固める。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松前慶広」の解説

松前慶広 まつまえ-よしひろ

1548-1616 織豊-江戸時代前期の大名。
天文(てんぶん)17年9月3日生まれ。蠣崎季広(かきざき-すえひろ)の3男。蝦夷(えぞ)地(北海道)松前藩主初代(松前家5世)。文禄(ぶんろく)2年豊臣秀吉に蝦夷地支配公認の朱印状をもらい出羽(でわ)の安東氏の支配を脱し,慶長4年姓を松前とあらためた。9年徳川家康からアイヌ交易独占権公認の黒印状を交付され,近世大名の地位をえる。11年福山館が完成。元和(げんな)2年10月12日死去。69歳。通称は新三郎。

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367日誕生日大事典 「松前慶広」の解説

松前慶広 (まつまえよしひろ)

生年月日:1548年9月3日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1616年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松前慶広の言及

【善光寺】より

…大臼山と号す。寺伝には慈覚大師の草創とするが,1613年(慶長18),松前慶広が祈願所として小堂を建立したのが当寺の始まりである。1804年(文化1),江戸幕府の蝦夷三官寺の一つに指定され,八雲から白老地方に布教した。…

【松前藩】より

…松前(福山)を本拠に蝦夷地(えぞち)を領有した外様小藩。藩主は松前氏。室町中期から戦国時代に蝦夷地の南端部に和人政権を確立した蠣崎(かきざき)氏が,第5世慶広のとき,1593年(文禄2)豊臣秀吉より,ついで1604年(慶長9)徳川家康より蝦夷地交易の独占権を公認されて一藩を形成した。慶広は1599年松前と改姓し,翌1600年福山館の築城に着手,06年落成した。この館は松前氏が城主でなかったため正式には福山館または福山陣屋と称したが,領民とアイヌに対しては城と称した。…

※「松前慶広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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