松野村(読み)まつのむら

日本歴史地名大系 「松野村」の解説

松野村
まつのむら

[現在地名]喜多方市慶徳町けいとくまち松舞家まつまいけ

宮在家みやざいけ村の南、会津盆地北西縁の山際に位置し、南は慶徳村、東はにごり川を隔てて太郎丸たろうまる村。本村の北東に舞台田ぶたいだ六千刈ろくせんがりの端村がある。慶徳組に属した。天文一二年(一五四三)新宮しんぐう熊野社(現熊野神社)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の取組第一番に「松野」とみえ、当村も同田楽相撲へ参加していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千四七四石余。「新編会津風土記」によると家数は本村四四・舞台田二〇・六千刈一九。


松野村
まつのむら

[現在地名]勝浦市松野

蟹田かにた村の北西に位置し、集落の北東を夷隅いすみ川が流れる。大多喜おおたき往還が通り、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還の内浦うちうら(現天津小湊町)方面からの道などと合流する。十返舎一九「房総道中記」には大多喜―松野間は川が多いが、大方は徒歩渡りとしている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四一石。正保国絵図では高二四〇石。寛文四年(一六六四)の阿部正春領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、武蔵岩槻藩領。


松野村
まつのむら

[現在地名]馬頭町松野

久那瀬くなせ村の南、那珂川東岸に位置し、南は富山とみやま村。永禄一三年(一五七〇)三月八日の佐竹義重官途状写(秋田藩家蔵文書)によると佐竹義重は家臣小野崎隼人佑に「松野在番」の辛労をねぎらい、官途を与えることを約している。文禄三年(一五九四)の常州検地覚書(佐竹文書)に下野のうちとして松野とあり、太閤検地が行われている。同四年七月一六日の佐竹義宣知行充行状(松野文書)で松野七〇六石が松野大膳亮に与えられ、ほかに佐竹義宣蔵入地一千四一七石が松野氏に預けられていた。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)によれば「松野村、入山共ニ」とみえ、高六六〇石余、ほかに新田五六石余。


松野村
まつのむら

[現在地名]瑞浪市日吉町ひよしちよう

白倉しらくら村の西にあり、日吉高原の西端に位置する。西は可児かに次月しづき(現御嵩町)可児川が西へ流れ、鬼岩おにいわ(可児郡御嵩町の→次月村渓谷を形づくる。日吉一二ヵ村の一で、元禄郷帳に村名がみえ高六石余、尾張藩領。中山道細久手ほそくて宿の助郷を勤める(臼井本元禄郷帳)。「濃州徇行記」によれば高八石余、田六反余・林三町二反、家数一三・人数五七、馬二。千村藤右衛門の屋敷があった。


松野村
まつのむら

[現在地名]村松町松野

早出はいで川の中流、すぎ川と合流する付近の小平地にある。対岸の南は横渡よこわたり村・暮坪くれつぼ村。元和四年(一六一八)に村上藩領となる。正保国絵図に高三八石余。同藩松平直矩の代の万治二年(一六五九)検地帳(落合家文書)には高八四石余とあるが、実態に合わないものであった。寛文八年(一六六八)榊原氏による永荒地改が実施され、これが当村高の基本となる。


松野村
まつのむら

[現在地名]静岡市松野

安倍川中流右岸に位置し、南は油山ゆやま村。領主変遷内牧うちまき村と同じ。元禄郷帳では高六六石余。旧高旧領取調帳では幕府領九六石余。「駿河記」では家数六四。天保八年(一八三七)には家数六九のうち困窮五六、餓死者一七(白鳥家文書)。茶一件への参加は相淵あいぶち村と同じ。竹林があり、毎年駿府城や紺屋こうや町御蔵・清水湊御蔵の松飾に使う竹を伐採したという(享保一六年駿府代官所村高帳・「美和村誌」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android