デジタル大辞泉 「二荒山神社」の意味・読み・例文・類語
ふたらさん‐じんじゃ【二荒山神社】
⇒ふたあらやまじんじゃ
宇都宮市街中央部に位置し、鳥居は東西に通る
承和三年一二月二五日下野国従五位上勲四等二荒神は正五位下に、同八年四月一五日に正五位上に、嘉祥元年(八四八)八月二八日には従四位下に叙せられている(続日本後紀)。天安元年(八五七)一一月一七日には従三位勲四等二荒神に封戸一烟が充てられている(文徳実録)。貞観元年(八五九)一月二七日京畿七道諸神の階を進めた時には、下野国で一社のみあげられて正三位になり、同二年九月一九日には二荒神社に初めて神主が置かれた。同七年一二月二一日従二位、同一一年正二位へと昇進した(三代実録)。文明一六年(一四八四)の宇都宮大明神代々奇瑞之事(群書類従)によれば、天慶年間(九三八―九四七)平将門追討に際し、下野押領使藤原秀郷は当社に祈念し、神剣を得て、これにより将門の首をはねたため、宇都宮大明神は正一位勲一等を贈られたという。「延喜式」神名帳には河内郡の一座として「二荒山神社」があり、下野国唯一の名神大社であった。読みについては異本により「フタアラノ」「フタラノ」の二通りが記される。「左経記」寛仁元年(一〇一七)一〇月二日条では、後一条天皇の即位に伴い下野二荒に一代一度の奉幣使が派遣されている。康和五年(一一〇三)六月一〇日の神祇官奏(朝野群載)によれば下野国二荒山神にも穢の祓いの使が下されている。上記の史料に現れる二荒神につき、当社と日光二荒山神社のいずれにあたるかは近世以来論議の対象となったが、確定できない。
永万元年(一一六五)六月日の神祇官諸社年貢注文(永万文書)には「宇豆宮上馬二匹」とあり、神祇官に上馬二匹を進納している。「平家物語」巻一一には、那須与一が屋島合戦の折、船に揺られる扇の的を射る時に「我国の神明、日光権現宇都宮・那須の大明神」に祈念したところ、風も弱まりみごとに扇を射ることができたと記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
栃木県日光市山内に鎮座。古く日光権現とよばれ,現在日光二荒山神社ともよぶ。二荒山に鎮まる神霊,二荒山大神すなわち大己貴(おおなむち)命,その妃田心姫(たごりひめ)命,子の味耜高彦根(あじすきたかひこね)命をまつる。二荒山すなわち男体山,妃の女峰山,子の太郎山等を神体山とする古代信仰に発し,767年(神護景雲1)下野国芳賀(はが)郡の勝道上人が発願,本社の地に社殿を建て奉斎,かたわらに四本竜寺を営み,785年(延暦4)二荒山頂に奥宮を,湖畔に中宮祠,中禅寺を創建したと伝える。以後霊場として信仰をあつめ,延喜の制で名神大社。中世以降武家の崇敬をうけたが,1590年(天正18)豊臣秀吉に抗して社領を奪われ,のち徳川家康の保護をうけ,日光東照宮創建の後輪王寺宮門跡の支配下に入った。本殿は1619年(元和5)将軍徳川秀忠の造営で,大谷(だいや)川にかかる朱塗の神橋などとともに重要文化財。旧国幣中社。例祭4月17日は弥生祭といい,13日に始まる。ほかに7月31日より8月7日までの男体山登拝大祭がある。
執筆者:鎌田 純一
栃木県宇都宮市馬場通に鎮座。正式名称は宇都宮二荒山神社。旧称宇都宮大明神。豊城入彦(とよきいりひこ)命,大物主命,事代主命をまつる。豊城入彦命は崇神天皇の皇子で,皇命をうけて東国を平定,のち当地にとどまったが,4世孫奈良別王が下野国造となり,祖神を奉斎したのが当社の起源と伝える。もと現在の下之宮に鎮座,838年(承和5)現在地に遷座したが,背後の前方後円墳は祭神の墳墓とされる。下野国一宮で,1189年(文治5)源頼朝は奥州藤原氏征討にあたり当社に奉幣,また荘園を寄進したことが《吾妻鏡》に見えるが,以後宇都宮氏ほか武将の崇敬保護が続いた。1605年(慶長10)徳川家康が社殿を造営,のち幕府や藩主の保護をうけた。旧国幣中社。例祭10月21日,ほかに田舞祭5月15日など特殊神事が多い。
執筆者:鎌田 純一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
栃木県日光市山内に鎮座、また中宮祠(ちゅうぐうし)は中禅寺(ちゅうぜんじ)湖畔に、奥宮は男体(なんたい)山山頂にそれぞれ鎮座する。大己貴命(おおなむちのみこと)、田心姫(たごりひめ)命、味耜高彦根(あじすきたかひこね)命を祀(まつ)る。古く二荒山(男体山)を神体山として奉斎したことに源を発し、767年(神護景雲1)勝道上人が二荒山麓(ろく)に三神を祀ったのを創祀(そうし)とする。1617年(元和3)、隣地に東照宮が創建されるに及び、地主神として厚遇された。明治の制では国幣中社に列せられる。例祭は4月13~17日で弥生祭(やよいまつり)と称し、15町内の屋台が引き回され囃子(はやし)の奉納でにぎわう。また、中宮祠を中心に行われる祭りに1月4日の武射祭(むしゃさい)、8月1~7日の奥宮登拝(おくみやとはい)大祭がある。また、恒例祭典には社伝の八乙女神楽(やおとめかぐら)が奏される。本殿・拝殿や大谷(だいや)川に架けられた神橋など多数の建造物が国の重要文化財の指定を受け、社宝には備前長船(びぜんおさふね)倫光、来国俊(らいくにとし)(いずれも国宝)などの太刀(たち)ほかがある。
[茂木貞純]
栃木県宇都宮市馬場通りに鎮座。豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、大物主(おおものぬし)命、事代主(ことしろぬし)命を配祀(はいし)する。日光市の二荒山(ふたらさん)神社と密接な関係を有す。国史の初見は836年(承和3)で、延喜(えんぎ)式内社、下野(しもつけ)国一宮(いちのみや)として崇敬され、宇都宮大明神とも称した。明治の制では国幣中社である。例祭は10月21日で秋山祭ともいい、10月28日と29日の菊水祭には、神輿渡御(みこしとぎょ)、流鏑馬(やぶさめ)神事が行われる。社宝に鉄製狛犬(こまいぬ)(国重要美術品)などがある。
[茂木貞純]
栃木県日光市山内に鎮座。本社(新宮)のほか,中禅寺湖畔の中宮祠(ちゅうぐうし),男体山(二荒山)山頂の奥宮などからなる。旧国幣中社。式内社二荒山神社の比定については,宇都宮市の二荒山(ふたあらやま)神社との間に論争がある。祭神は二荒山神。山岳信仰を起源とし,767年(神護景雲元)勝道が本社を山麓に創建,のち山上に奥院を建立という。神仏習合後,修験道の中心地となる。1613年(慶長18)天海が日光山貫主となり,17年(元和3)東照宮が遷座すると,当社も幕府の保護をうけ再興,社殿が修造された。1871年(明治4)神仏分離令により,二荒山神社・輪王寺・東照宮に分離。例祭は4月17日。社宝の大太刀(銘備前長船倫光)と小太刀(銘来(らい)国俊)は国宝。建造物・「後撰集」など重文。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新