日本歴史地名大系 「板尾村」の解説 板尾村いたおむら 新潟県:東頸城郡安塚町板尾村[現在地名]安塚町板尾北流する小黒(おぐろ)川の左岸沖積地の山裾上、北は袖山(そでやま)村、南は牧野(まきの)村、東は小黒川を挟んで直峰(のうみね)城跡の城(じよう)山、西は熊沢(くまざわ)村(現浦川原村)。地内には仏供田(ぶつくでん)・御堂入(みどいり)・地蔵前(じぞうまえ)・フジ塚(づか)・堂脇(どうわき)・寺屋敷(てらやしき)・立中(たつちゆう)・大門(だいもん)・中(なか)ノ宮(みや)・外五社(そとごしや)・宮(みや)ノ脇(わき)などの宗教地名が多く残る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「吉田与吉郎分此外三方分板尾村 中」とあり、本納三四石三斗一升六合・縄高五五石四斗二升七合、家八軒・二五人。 板尾村いたおむら 和歌山県:有田郡清水町板尾村[現在地名]清水町板尾井谷(いだに)村の東北、雨(あめ)山(八五〇・六メートル)の東山間部の有田川筋に立地。「続風土記」に「東にある小名を下大西・岡手・大野番・日浦・木地屋と云ふ、西にあるを平藪といふ、村の北に小谷ありて九鬼谷・田中・上大西此にあり」「古此辺の山の尾にて諸木を伐りて板を多く造りしより云ふなるへし」とある。中世には阿河(あてがわ)上庄に属し、文永四年(一二六七)五月一〇日の阿河上庄在家綿注文案(又続宝簡集)に在家として「イタノホニ二宇」とみえるのは当地のことと考えられる。 板尾村いたおむら 愛媛県:南宇和郡一本松町板尾村[現在地名]一本松町増田(ますだ)一本松盆地と山を隔てた川沿いの細長い村。同盆地の南部と北部にも広がり、広見(ひろみ)村を抱き込むように位置する。西は広見村、東は山を隔てて正木(まさき)村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「板尾村 深山有、茅山有」と村名がみえる。宇和島藩領。太閤検地の石高は四二一石九斗六升で、耕地面積の比率は田八六パーセント、畑一四パーセントであったが、寛文検地では石高が二二パーセント増加し、田八一パーセント、畑一九パーセントとなっている。 板尾村いたおむら 石川県:石川郡河内村板尾村[現在地名]河内村板尾吹上(ふきあげ)村の東に位置し、集落は直海谷(のみだに)川と支流板尾川(板尾大谷)の合流点右岸の河岸段丘上にある。なお、同川上流部に古屋敷(ふるやしき)・古板尾(こいたお)の字名があり、現在の集落は吹上村との替地と伝える(河内村史)。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高四〇俵。正保郷帳では高三七石余、畑方二町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(板尾区有文書)の高三九石、免四ツ六歩、小物成は山役一三二匁・川役一三匁・炭役一九匁。同年間の家高数八・百姓数二二(高免付給人帳)。家数は正徳四年(一七一四)二七、寛政三年(一七九一)三一(改作所旧記)。嘉永四年(一八五一)の百姓数三六(「草高免付品々帳」板尾区有文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by