吹上村(読み)ふきあげむら

日本歴史地名大系 「吹上村」の解説

吹上村
ふきあげむら

[現在地名]栃木市吹上町

みや村の東、赤津あかづ川右岸に立地し、北に鴻巣こうのす(富士山とも)がある。南東は野中のなか村。村内に八日市場ようかいちば新屋敷あらやしき南町みなみまち宿しく横宿よこじく今宿いまじくなどの地名のほか、近世初頭に皆川氏家臣団が開発したという松原まつばらがある。地名は勝道上人が幼時この地を遠望したとき五色の雲が立昇っていたことに由来するという。鴻巣山の南東麓の小丘を伊吹いぶき山といい、その南の谷の奥に勝道の開山と伝える真言宗善応ぜんのう寺があったが、現在は近隣の民家が聖観音を祀るのみ。また伊吹山は「古今六帖」に「なほざりにいぶきのやまのさしも草さしも思はぬ事にやはあらぬ」などと詠まれる歌枕。「下野国誌」は、能因の著という「坤元儀」では伊吹山が美濃と近江の国境にある山ではなく、下野の山であるという伝えを紹介している。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]小郡市吹上

宝満ほうまん川中流左岸、じよん(花立山)の山麓台地の西端に位置し、南は井上いのうえ村。南東部を干潟ひかた村が横断し、飛地を形成する。低地部の三十六さんじゆうろくなどは条里制の遺称地名と思われる。永享九年(一四三七)一二月一三日の道瑛寄進状(高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によれば、「三原西郷内吹上名」を道瑛(大友親著)高良玉垂こうらたまたれ(現久留米市)に寄進している。文明三年(一四七一)には大友親繁が同所を永代神領として安堵している(同年一二月一一日「大友親繁安堵状」同上)。明応―文亀(一四九二―一五〇四)の頃、菊池氏が五条良邦に河北かわきた庄二〇〇町の代地として預け置いた三原みはら郡一三五町のうちに「ふきあけ」の一二町がある(四月二九日「五条氏知行分坪付」五条家文書/史料纂集など)


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]倉敷市下津井吹上しもついふきあげ下津井吹上一―二丁目

下津井村の東、南は瀬戸内海に面する。下津井四ヵ浦の一つ。「金毘羅参詣名所図会」には下津井のうちで、着船の浜とある。元弘二年(一三三二)三月、讃岐に配流となった後醍醐天皇の子妙法院宮は当地まで陸路で来、当地から讃岐に渡った(「太平記」巻四)。建武三年(一三三六)五月一八日、西国より京都を目指した足利尊氏と船路をとった軍勢が当地に着いている(同書巻一六)。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳に「下津井村之内」吹上村とあって、田畠合せて一一六石余・加子米五石八斗余とある。「備陽記」に「湊町並」、「吉備温故秘録」には「下津井村と町続にて湊なり、商ひを業とするもの多し」、「撮要録」には田畑数なく人数が多く、中以下の者は猟業にて、過半は商売にて渡世と記す。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]吹上町筑波つくば一―二丁目・本町ほんちよう一―五丁目・鎌塚かまつか一―二丁目・みなみ一―二丁目・富士見ふじみ一―四丁目・吹上

元荒川の南に位置し、川の蛇行跡に沿う自然堤防上に集落が形成されている。村の南半は後背低湿地となっている。足立郡おし領に属した(風土記稿)。南は大芦おおあし村など、西は榎戸えのきど村、北は埼玉郡鎌塚村など、東は前砂まえすな村。村内を中山道が通り、鴻巣宿・熊谷宿との間の宿として重要な役割を果していたと思われる。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]伊那市大字西箕輪にしみのわ 吹上

きようヶ岳の東、大泉所おおいずみどころ山より流れ出す大泉川の作る扇状地の要部に開けた村。山麓より広がる傾斜地の上部に位置し常に南風を受けるので、吹上という地名が起こったものと思われる。大泉川は伏流となり、大泉新田から大泉村(現上伊那郡南箕輪村)を通って天竜川に合するが、水量が豊かでないので、村々の水利権は複雑である。

信州伊奈郡箕輪領村々新田変地之類改帳(上伊那誌)によると、新田吹上村はたか(鷹町)村の枝村で、慶安元年(一六四八)の新田取立で、延宝六年(一六七八)に初検地が行われ、家数一四軒に達し、元禄一一年(一六九八)の石高は六七石二斗三升九合三勺となっている。

なお高町について貞享三年(一六八六)成稿の「小平物語」には次のように記されている。


吹上村
ふきかみむら

[現在地名]篠山市東吹ひがしぶき

東吹村の東部に位置する。延宝九年(一六八一)東吹村から分立したという(稲山家文書)。元禄五年(一六九二)の免状(同文書)では高二七五石余で、免三ツ八分、枯損引一三五石余。「丹波志」に吹庄のうちとして「上」とみえ、高二七五石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では古佐組のうちに吹上村とあり、家数三〇・人数一六六。「多紀郡明細記」に東吹村高のうち上村とあり、高二五〇石余で、山役米二石九斗のほか、薪四八荷余・瓦焼木二四束を納めていた。家別三二・人別一六一、牛一二、青池・長井谷ながいだに池・赤池・御所ごしよだに池・神谷かんだに池・大谷新おおたにしん池など大小の溜池があった。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]竜洋町豊岡とよおか

掛塚かけつか輪中の中央やや東寄りに位置する村。南は白羽しろわ村。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に吹上とあり高一七六石余。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ高八〇石余・畑一〇町一反余、新田六石余・畑八反余、ほかに八幡領一〇石。元禄郷帳では高一三一石余。領主の変遷は川袋かわぶくろ村に同じ。天竜川池田いけだ(現豊田町)の渡船では大助船役として小船一艘を勤めた(寛政四年「天竜川渡船由緒書上帳」天竜川船越渡船資料)


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]青梅市吹上

野上のがみ村・下師岡しももろおか村の北に位置する。地内の曹洞宗宗泉そうせん寺は師岡山城守の開基とされ、その墓塔という永禄五年(一五六二)二月銘の宝篋印塔がある。また福徳二年(異年号、一四九一)銘の三基など一六基の板碑がある。慶長一八年(一六一三)新町しんまち開発にあたり吉野織部之助が相談した三名のうち当村の塩野仁左衛門は、立村に伴い屋敷二軒を請けている(以上「仁君開村記」吉野家文書など)。田園簿に村名がみえ、田五五石余・畑六〇石余で幕府領三田みた領内では水田の割合が高く、用水溜池によるものであるが、その普請には野上村から人足三六人を出す例があったので(元禄二年「野上村明細帳」吉野家文書)、水量は豊かであったらしい。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]平賀町吹上

ひら川や六羽ろつぱ川が形成する扇状地の山際にあり、北は柏木町かしわぎまち村、北東は沖館おきだて村、西は原田はらた村に接し、南は高畑たかはたけ村に続く。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡の新田に高一〇八〇・一七石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に田畑屋敷合せて三八町四反二畝一四歩、村高四四二・四一五石、うち田方四二五・五六四石、畑方一六・八五一石とあり、ほかに畑地一畝二〇歩、漆木三本、川原が五ヵ所で一反三畝六歩と記される。


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]河内村吹上

久保くぼ村の南に位置し、集落は直海谷のみだに川左岸の河岸段丘上にある。村名の由来は、強風が人家も吹上げるほどの地であることによるという(加賀志徴)。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高四四俵。正保郷帳では高四六石余、畑方三町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(吹上区有文書)の高五二石、免四ツ二歩、小物成は山役一一〇匁・川役一三匁。家数は正徳四年(一七一四)一一、寛政三年(一七九一)一〇(改作所旧記)


吹上村
ふきあげむら

[現在地名]南淡町阿万吹上町あまふきあげまち

塩屋しおや村の西にある。北のじやひれから押登おしのぼり岬まで南北に延びる海岸線は福良ふくら湾に面し、南の東西約一・五キロの砂浜は紀伊水道を望む。正保国絵図に村名がみえ、高七石余。天保郷帳では高一二二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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