林倭衛(読み)ハヤシシズエ

デジタル大辞泉 「林倭衛」の意味・読み・例文・類語

はやし‐しずえ〔‐しづヱ〕【林倭衛】

[1895~1945]洋画家長野の生まれ。大正8年(1919)社会運動家の大杉栄を描いた「出獄の日のO氏」を二科展に出品し、警視庁から撤回を命じられる。大正10年(1921)渡欧、帰国後は春陽会などで活躍セザンヌ影響を受け、詩情を感じさせる作風で知られる。

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20世紀日本人名事典 「林倭衛」の解説

林 倭衛
ハヤシ シズエ

大正・昭和期の洋画家



生年
明治28(1895)年6月1日

没年
昭和20(1945)年1月26日

出生地
長野県上田市

経歴
大正5年二科展に「サンヂカリスト」他を出品し初入選。6年樗牛賞、7年二科賞受賞。8年出品した「出獄の日の大杉栄氏」が治安紊乱のかどで陳列撤回された。10年から5年間渡欧。帰国後、春陽会会員。昭和3年〜5年再び渡欧。6年満州・朝鮮を写生旅行。9年春陽会退会。12年改組第1回文展の審査員を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「林倭衛」の意味・わかりやすい解説

林倭衛
はやししずえ
(1895―1945)

洋画家。長野県上田生まれ。1911年(明治44)日本水彩画研究所の夜間部に入る。16年(大正5)第3回二科展に『サンジカリスト』ほかが初入選、翌年二科展出品の『小笠原(おがさわら)風景』で樗牛(ちょぎゅう)賞、18年には二科賞を受ける。翌年旧友大杉栄(さかえ)を描いて二科展に出品した『出獄の日のO氏』は、警視庁から撤回を命じられた。20年二科会会友となり、翌年渡仏、26年帰国して春陽会会員となり、27年(昭和2)春陽展に滞欧作28点を特別展示。34年春陽会を退会、翌年の帝展改組に際し無鑑査となり、新文展審査員も務めた。独特の詩情をもつ簡明な作風を示した。

[小倉忠夫]

『小崎軍司著『林倭衛』(1971・三彩社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林倭衛」の解説

林倭衛 はやし-しずえ

1895-1945 大正-昭和時代前期の洋画家。
明治28年6月1日生まれ。大正5年二科展に「サンジカリスト」が初入選,翌年「小笠原風景」で樗牛(ちょぎゅう)賞。8年大杉栄をえがいた「出獄の日のO氏」を同展に出品し警視庁から撤去を命じられた。10年渡欧,帰国後,春陽会会員となるが,のち退会。新文展の審査員をつとめた。昭和20年1月26日死去。51歳。長野県出身。

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367日誕生日大事典 「林倭衛」の解説

林 倭衛 (はやし しずえ)

生年月日:1895年6月1日
大正時代;昭和時代の洋画家
1945年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の林倭衛の言及

【明治・大正時代美術】より

…また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880‐1977),正宗得三郎(1883‐1962),中川紀元(きげん)(1892‐1972),鍋井克之(1888‐1969),小出楢重,国枝金三(1886‐1943),黒田重太郎(1887‐1970),林倭衛(しずえ)(1895‐1945),硲(はざま)伊之助(1895‐1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897‐1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876‐1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。…

※「林倭衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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