枚田郷
ひらたごう
郷名は「和名抄」高山寺本にみえる古代の郷に由来し、枚田から桑原付近に比定される国衙領で、山地では土田郷と境を接していた。しばしば牧田郷とも書かれる。「但馬考」は、西牧田・牧田岡・市御堂・法興寺・比地・玉木・和田山・桑原を牧田郷としている。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には、朝来郡国衙領の中に「枚田郷 四拾三町八反十分」とみえ、「地頭枚田又太郎光盛」「除方々権門領定」の注記があり、面積の内訳は、常荒流失三町四反三四〇歩、人給七町七反九〇歩、定田三二町三反三〇〇歩で、定田には「八幡宮神人免卅一丁六反二百六十分」と注記されている。東河郷と同じく当郷も境域内に権門領(庄園)があり、また定田の大部分が八幡宮(石清水八幡宮)の神人免であった。八幡宮神人は東河庄や土田郷の場合と同じく直接には室尾別宮に所属していたのであろう。地頭枚田光盛は国御家人ではないが、当郷を本拠とすると思われる。太田文には、国衙領枚田郷とは別に庄園領の中に「枚田位田 廿町」がみえる。「二条院御領」「地頭東河藤四郎長茂 御家人」の注記があり、庄田の内訳は、流失二町八反二二〇歩、神田三反小、地頭給一町五反(うち二反は長茂舎弟の讃岐房善円)、定田一五町三反二〇歩(うち地頭雑免二丁二反小、このうち五反は長茂舎弟の藤九郎有茂)である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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