柏田村(読み)かしわだむら

日本歴史地名大系 「柏田村」の解説

柏田村
かしわだむら

[現在地名]宮崎市瓜生野うりゆうの

瓜生野村の東、大淀川の北岸に位置する。中世には宮崎城の商業地を形成し、同城廃城後はいったん衰微したものの近在の商業地として栄えた(瓜生野・倉岡郷土誌)

〔中世〕

文和三年(一三五四)一〇月一六日の戸次重親申状案(立花家文書)に宮崎庄内「柏田半村 景重方」とみえ、大友氏の庶家戸次浄心(重親)は惣領大友氏時に柏田半村などの所領を譲与し、幕府安堵を申請している。しかし貞治二年(一三六三)三月二日の足利義詮御判御教書案写(竹中家文書)によれば、足利義詮は修理大夫に対し、浄心から氏時への譲与の経緯と、浄心の子孫がことごとく義絶したのかどうかを調査するよう命じているが、この文書は検討の余地がある。寛正六年(一四六五)二月吉日の神事注文写(奈古神社文書)によると、春秋彼岸僧別次第の五日は柏田之村が勤め、ふしやの的之次第も六ヵ村の回り持ちで巳亥年は柏田之村であった。年月日未詳の奈古社相撲日記写(同文書)の五番に「かしわたの村」とみえる。


柏田村
かしたむら

[現在地名]東大阪市柏田西かしたにし一―三丁目・柏田本かしたほん町・柏田東かしたひがし町・長瀬ながせ町二―三丁目・渋川しぶかわ町一―三丁目・吉松よしまつ二丁目・衣摺きずり一―二丁目など

渋川郡に属し、北蛇草きたはぐさ村の南、長瀬川左岸の自然堤防上にある。「四天王寺御手印縁起」にあげられる同寺領渋川郡衣摺地内に「六条(柏)田里拾弐箇坪、伍仟弐佰代」がみえる。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高七五九石余、幕府領。延宝年間(一六七三―八一)河内国支配帳・天和元年(一六八一)河州各郡御給人村高付帳ともに同高で幕府領。


柏田村
かしわだむら

[現在地名]牛久町柏田

小野おの川右岸にあり、北西猪子ししこ村。元禄郷帳の村高は三九一石余で、嘉永三年(一八五〇)の宗門人別帳(木村家文書)によれば、長泉ちようせん寺檀家で、戸数六九・人数四〇七(出家・道心・社家六)、馬三三。文政一二年(一八二九)の村絵図(池田家蔵)には上下柏田の記載があり、幕末の一時期分村していたとも考えられる。幕末は天領二三三石余、旗本土屋氏領三三六石余(各村旧高簿)

天台宗の西光山長泉(本尊阿弥陀如来)があり、戦国期に焼失し、元禄年間(一六八八―一七〇四)再建と伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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