柏野庄(読み)かしわののしよう

日本歴史地名大系 「柏野庄」の解説

柏野庄
かしわののしよう

中世の庄園。天福元年(一二三三)と推定される天台座主尊性法親王書状(真経寺所蔵法華経紙背文書)に、安嘉門院領として高家たいえ庄とともにみえる。同年頃の動きと安嘉門院領(かつての八条院領)からのちに昭慶門院憙子内親王の手に渡るまでの経緯は高家庄と同じ。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)によれば、当庄は二条中納言入道の知行とされている。文和三年(一三五四)頃とみられる七月五日の西園寺大納言(実俊)宛の後光厳天皇綸旨(妙法院文書)によると、柏野庄は宇野備前守(頼季)押妨にあっており、朝廷(北朝)は庄務を雑掌の手に取戻せるよう押妨の停止を室町幕府に指示している。

宇野氏が西播磨を管轄する守護代を勤めた時、守護代所は柏野庄内広瀬ひろせに置かれており(永享六年九月二〇日「守護赤松満祐奉行人連署奉書案」東寺百合文書)、これに宇野氏の居館が充てられていた。万里小路時房の日記「建内記」嘉吉元年(一四四一)一〇月二八日条によると、嘉吉の乱後に播磨国守護となった山名持豊の宍粟郡司が柏野庄に入部し、前守護代宇野満貴の館へ入ろうとしたが、満貴はこれを許さず、近所の道場を点定して居住させたという。


柏野庄
かしわののしよう

東大寺荘園。のち長講ちようこう堂領となる。その範囲は近世の柏野村の地籍よりも広く、新堂しんどう村・御代みだい村をも包含した地域一帯に比定される。東大寺は天平二〇年(七四八)頃より、柘殖つみえ(現伊賀町に比定される地域)の土地を買得し、天平神護二年(七六六)一二月五日付伊賀国司解(東南院文書)によれば阿拝郡に四〇町二段一〇一歩、そのうち柘殖郷内に二九町六段五歩の私有地を所有するに至っている。これらが後の玉滝たまたき(現阿山町)発達の母体となったといわれるが、その中の一部が独立して柏野庄とよばれたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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