柿御園(読み)かきのみその

日本歴史地名大系 「柿御園」の解説

柿御園
かきのみその

現八日市市東部から神崎郡永源寺町にまたがる広域の庄園。御園三郷ともよばれ、かみ郷がほぼ現永源寺町、なか郷・しも郷は現八日市市域に比定され、ほかに神田じんでん郷・小神田こじんでん郷、山上やまかみ郷・熊原くまはら(現永源寺町)があった。愛知えち川左岸地域の上流から下流にかけて広大な庄地を有したことになり、「輿地志略」は愛知川に沿って上之郷中之郷下之郷があり、伊勢国境までを庄域にすると記す。立庄の時期・経緯などは不明だが、御園の名称から諸司領として成立したとも考えられる。「和名抄」神崎郡高屋たかや郷の地に成立したとする考え方もあるが、根拠とされる文亀二年(一五〇二)九月一六日の日付をもつ大安寺三綱僧領近江国神崎郡高屋郷柿御園惣庄絵図(歳苗神社蔵)、正徳四年(一七一四)の写になる同様の高屋八幡神社蔵絵図は、注目すべき景観描写がみられるものの史実に反する個所が多く、高屋郷との関係はいまのところ明らかではない。また奈良大安寺領であったとする説も前掲絵図の信憑性などから不詳。

康平元年(一〇五八)一一月日の近江国雑掌秦安成解(東南院文書)に「柿御園」から寺封米三〇石が奈良東大寺に納められたことがみえる。また「水左記」承保四年(一〇七七)一一月一四日条には、前年来蔵人所領柿御園と堀川左大臣源俊房(村上天皇皇子)家領饗庭あえば(高島郡か)との間で相論があり、これに関して平時範が俊房のもとへ呼ばれた記事がある。相論の内容など詳細はわからない。一方、「平定家朝臣記」康平五年正月一三日条によれば、奈良春日社参詣用途として屯食が徴収されており、藤原摂関家領となっていたことが知られる。仁平元年(一一五一)の高陽院御願の白川福勝ふくしよう院(現京都市左京区)の供養にかかわる丈六仏像造営文書(京都大学所蔵範記仁平二年八月巻裏文書)によれば、丈六仏九体の造仏にあたって、柿御園に葩木の調進が賦課されている。仁平二年(一一五二)一二月に高陽院(藤原忠実女泰子、鳥羽天皇皇后)の逆修仏事が京都白川しらかわ御所で行われるにあたって非時四具が柿御園から調進され(「兵範記」同月一二日条)、久寿二年(一一五五)の同院死去に伴う初七日の仏事では「故院御領柿御園」から参加した勤行僧に帷などの引出物が供出されており(同書一二月二二日条)、柿御園は忠実から高陽院に伝領されていた。女院の死後柿御園は摂関家領に復した。建長五年(一二五三)近衛家所領目録(近衛家文書)には近衛家が本所として庄務を進退する家領の一つとして高陽院領内の柿御園があげられ、預所は兵部卿入道。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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