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桑田立斎 くわだりゅうさい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

桑田立斎
くわだりゅうさい

[生]文化8(1811)
[没]明治1(1868)
江戸時代末期の蘭方医。越後の人。痘科の桑田玄真の養子安政4 (1857) 年,蝦夷地痘瘡が流行したとき,道内を回って 6000人あまりのアイヌ人に種痘を行なった。生涯に種痘した数は7万人に及ぶといわれる。『引痘要略解』『愛育茶譚』を著わした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

桑田立斎 くわた-りゅうさい

1811-1868 江戸時代後期の蘭方医。
文化8年7月10日生まれ。坪井信道(しんどう)にまなぶ。桑田玄真の養子となり,江戸深川で小児科を開業。嘉永(かえい)2年(1849)モーニケのつたえた牛痘種を幼児に接種。安政4年痘瘡(とうそう)が流行した蝦夷(えぞ)地で,数千人に種痘をほどこした。慶応4年7月27日死去。58歳。越後(えちご)(新潟県)出身。本姓は村松。名は和。字(あざな)は好爵。著作に「牛痘発蒙(はつもう)」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

桑田立斎

没年:明治1.7.21(1868.9.7)
生年:文化8.7.10(1811.8.28)
幕末の蘭方医。越後国(新潟県)新発田地蔵堂生まれ。村松正親の3男。天保8(1837)年江戸に出て,坪井信道の日習堂に入門して蘭医学を学んだ。12年1月蘭方医桑田玄真の養子となり,人痘接種に熱心であった養父からその手法を学んだ。13年4月江戸深川海辺大工町の万年橋の畔に小児科を開業して診療に当たるとともに,嘉永2(1849)年に蘭館医モーニケによってもたらされた牛痘法の意義をいち早く認めて,10万人の人々に牛痘接種を行おうとの悲願を自らに課して,これに専念した。安政4(1857)年蝦夷地開発政策の一環として,アイヌに牛痘を強制接種する方針が幕府によって採用され,深瀬洋春と共に蝦夷地に渡ってこれに従事した。立斎は箱館から東に足をのばしてついに国後島まで達し,6400名余りのアイヌに牛痘接種を実施した。小児疾病の治療のみならず,小児の栄養や養育の重要性を説いて,仮名交じり文の庶民向け育児書『愛育茶譚』(1853)を出版した。そのほかにも完成をみなかったものの,済幼院(育児院)の建設計画なども描いており,根っからの小児科医であったということができる。

(深瀬泰旦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

桑田立斎
くわたりゅうさい
(1811―1868)

幕末維新期の蘭方(らんぽう)種痘医。越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡新発田(しばた)地蔵堂(新潟県燕(つばめ)市分水(ぶんすい)地区)、新発田藩公厩(おうまや)支配村松喜右衛門正親の二男。幼名は八五郎・和(かず)、字(あざな)は好爵(こうしゃく)。18歳のとき江戸に出て坪井信道(しんどう)に師事、1841年(天保12)桑田玄真の養嗣子(ようしし)となり、翌1842年深川で開業。養父に種痘法を学び、1849年(嘉永2)牛痘苗(とうびょう)を得て幼児らに接種、このとき立斎と号した。疱瘡(ほうそう)絵や子守歌に託して啓蒙(けいもう)を続け、種痘を施した人は終生7万人に及んだという。1857年(安政4)蝦夷地(えぞち)で痘瘡流行のため、幕命を得て渡り、7000人に接種した。江戸に帰り種痘を実施中、慶応(けいおう)4年7月27日急逝。著作に『牛痘発蒙』『引痘要略解』『愛育茶譚(ちゃたん)』など。墓所は東京都台東(たいとう)区橋場保元(ほうげん)寺(法源寺)。[末中哲夫]
『日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本医学史5』(1957・日本学術振興会/複製増訂版・1978・日本古医学資料センター)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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