桑田立斎(読み)くわだりゅうさい

精選版 日本国語大辞典 「桑田立斎」の意味・読み・例文・類語

くわだ‐りゅうさい【桑田立斎】

  1. 江戸末期の蘭医玄真養子本姓村松。名は和。越後の人。坪井信道に学び、江戸で小児科開業オランダの医者モーニッケから牛痘種を得て、七万人に接種したといわれる。著「牛痘発蒙」「引痘要略解」など。文化八~明治元年一八一一‐六八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桑田立斎」の意味・わかりやすい解説

桑田立斎
くわたりゅうさい
(1811―1868)

幕末維新期の蘭方(らんぽう)種痘医。越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡新発田(しばた)地蔵堂(新潟県燕(つばめ)市分水(ぶんすい)地区)、新発田藩公厩(おうまや)支配村松喜右衛門正親の二男。幼名は八五郎・和(かず)、字(あざな)は好爵(こうしゃく)。18歳のとき江戸に出て坪井信道(しんどう)に師事、1841年(天保12)桑田玄真の養嗣子(ようしし)となり、翌1842年深川で開業。養父に種痘法を学び、1849年(嘉永2)牛痘苗(とうびょう)を得て幼児らに接種、このとき立斎と号した。疱瘡(ほうそう)絵や子守歌に託して啓蒙(けいもう)を続け、種痘を施した人は終生7万人に及んだという。1857年(安政4)蝦夷地(えぞち)で痘瘡流行のため、幕命を得て渡り、7000人に接種した。江戸に帰り種痘を実施中、慶応(けいおう)4年7月27日急逝。著作に『牛痘発蒙』『引痘要略解』『愛育茶譚(ちゃたん)』など。墓所は東京都台東(たいとう)区橋場保元(ほうげん)寺(法源寺)。

[末中哲夫]

『日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本医学史5』(1957・日本学術振興会/複製増訂版・1978・日本古医学資料センター)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桑田立斎」の解説

桑田立斎 くわた-りゅうさい

1811-1868 江戸時代後期の蘭方医
文化8年7月10日生まれ。坪井信道(しんどう)にまなぶ。桑田玄真の養子となり,江戸深川で小児科を開業。嘉永(かえい)2年(1849)モーニケのつたえた牛痘種を幼児に接種。安政4年痘瘡(とうそう)が流行した蝦夷(えぞ)地で,数千人に種痘をほどこした。慶応4年7月27日死去。58歳。越後(えちご)(新潟県)出身。本姓は村松。名は和。字(あざな)は好爵。著作に「牛痘発蒙(はつもう)」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桑田立斎」の意味・わかりやすい解説

桑田立斎
くわだりゅうさい

[生]文化8(1811)
[没]明治1(1868)
江戸時代末期の蘭方医。越後の人。痘科の桑田玄真の養子。安政4 (1857) 年,蝦夷地で痘瘡が流行したとき,道内を回って 6000人あまりのアイヌ人に種痘を行なった。生涯に種痘した数は7万人に及ぶといわれる。『引痘要略解』『愛育茶譚』を著わした。

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367日誕生日大事典 「桑田立斎」の解説

桑田 立斎 (くわた りゅうさい)

生年月日:1811年7月10日
江戸時代の蘭方医。小児科
1868年没

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