改訂新版 世界大百科事典 「楊士奇」の意味・わかりやすい解説
楊士奇 (ようしき)
Yáng Shì qí
生没年:1365-1444
中国,明前期の政治家,学者。名は寓,字は士奇,号は東里。泰和(江西省)の人。建文帝のとき翰林院に入り,永楽帝が即位して宮中に内閣の制を設けると選ばれて入閣し,政治の機務に参画した。以後,永楽,洪煕,宣徳,正統の4朝に歴仕し,内閣に在ること43年,洪煕帝,宣徳帝の善政は楊士奇に負うところが大である。正統帝が9歳で即位し,太皇太后が摂政となると,同じく閣臣であった楊栄,楊溥(ようふ)とともにこれを補佐して〈三楊〉とうたわれた。しかし前代より権力を得てきた宦官(かんがん)はこのころより横暴となり,とくに1442年(正統7)以後は王振が実質的に宦官政治を始めたので,楊士奇は孤立の状態の中で没した。この間,太祖,太宗,仁宗,宣宗の実録や《歴代名臣奏議》の編纂にあずかり,《三朝聖諭録》《奏対録》《文淵閣書目》の著述がある。詩人としては〈二楊〉とともに,典雅工麗を旨とし治世の太平を謳いあげた台閣体の始祖で,文集に《東里全集》《東里別集》がある。
執筆者:谷 光隆
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