日本大百科全書(ニッポニカ) 「洪煕帝」の意味・わかりやすい解説
洪煕帝
こうきてい
(1378―1425)
中国、明(みん)朝第4代の皇帝(在位1424~25)。姓名は朱高熾(しゅこうし)。廟号(びょうごう)は仁宗。年号にちなみ洪煕帝とよばれる。永楽(えいらく)帝の長子。1399年、当時燕王(えんおう)であった永楽帝が、北平(現北京(ペキン))を拠点として甥(おい)にあたる建文帝に反旗を翻した靖難(せいなん)の役において、よくこの地を守って建文帝側の大軍を防いだ。永楽帝即位とともに皇太子となり、しばしばモンゴル鎮圧のための北征を試みた帝にかわって政務を処理した。即位してからは、内政を重視し、冗官の廃止、東南アジア以西への艦隊派遣や中央アジアでのウマの購入中止などによって財政支出を切り詰めるとともに、雲南での宝石やベトナムでの貴金属の強制徴収の廃止、国家所用物資の買上げにおける公正な代価支払いの指示、飢饉(ききん)の敏速な救済を行って、民生の安定に努めた。また建文帝の側について罪にあてられた官僚・軍人のうち、奴隷とされた者をふたたび良民の身分を与えたり、流刑にされた者を故郷に戻すとともに、土豪の地域における横暴が顕著になりつつあった江南一帯に高官を派遣して調査を行わせるなど、社会矛盾の緩和にも留意した。在位わずか8か月ではあったが、その方針は、子の宣徳帝によって着実に踏襲されていった。
[森 正夫]