とあり、社伝によれば、そのためにこの地を楯脱と称し、のち楯縫に改められたという。推古天皇一六年と大同二年(八〇七)に社殿を再建と伝え、「延喜式」神名帳に「信太郡二座
永和元年(一三七五)一一月日の信太荘上下条寺社供僧等申状案(円密院文書)に「右寺社者、往古之仏閣、数代之社等也、就中木原・竹来両社者、庄内第一之惣廟也」と記され、文明八年(一四七六)七月二八日の木原村楯縫神社棟札(続常陸遺文)には「加藤式部丞藤原仲季判 土岐原修理亮 執行事 一宮明神之神主社人禰宜 源氏景成」とあり、中世には信太郡一宮と称され、崇敬された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報