日本大百科全書(ニッポニカ) 「横須賀藩」の意味・わかりやすい解説
横須賀藩
よこすかはん
遠江(とおとうみ)国城東(じょうとう)郡横須賀(現在の静岡県掛川市)周辺を領有した譜代(ふだい)藩。藩庁のあった横須賀城は、武田氏の遠州進出の拠点となった高天神(たかてんじん)城に対抗するため徳川家康が大須賀康高(やすたか)に命じてつくらせた城である(1578完成)。康高および養子忠政(ただまさ)(榊原康政(さかきばらやすまさ)の子)が在城したが、徳川家康の関東入部により忠政は上総(かずさ)久留里(くるり)に移った。その後には豊臣(とよとみ)秀吉の臣で秀次(ひでつぐ)付きの渡瀬詮繁(あきしげ)が入封(3万石)したが、まもなく秀次事件に連座して流罪となる。その後、渡瀬の臣有馬豊氏(とようじ)が就封したが、関ヶ原役後、有馬は丹波(たんば)福知山に移り、1601年(慶長6)大須賀忠政が再入封して当藩の成立をみる(6万石)。1615年(元和1)子忠次(ただつぐ)が、忠政の生家榊原家(館林(たてばやし)藩)を継いだため、横須賀の地は除封となる。同年徳川頼宣(よりのぶ)の支配するところとなったが、1619年頼宣は紀伊に転じた。以後、松平(能見(のみ))重勝(しげかつ)・重忠(しげただ)(1619~21。2万6000石)、井上正就(まさなり)・正利(まさとし)(1622~45。5万2500石~4万7500石)、本多利長(としなが)(1645~82。5万石)を経て、1682年(天和2)西尾忠成(ただなり)が信州小諸(こもろ)より2万5000石で入封し藩主家の定着をみた。忠成のあと忠尚(ただなお)、忠需(ただみつ)、忠移(ただゆき)、忠善(ただよし)、忠固(ただかた)、忠受(たださか)、忠篤(ただあつ)と8代180年余西尾氏の治世が展開した。忠尚は西丸・本丸老中に昇進し、加増されて3万5000石を領有。領地は城付領として遠江国城東・山名郡の村々が、他は同国敷知(ふち)・周智(すち)・佐野郡および駿河(するが)国志太(しだ)郡下の村々があてられていた。
本多利長の代には、近世農書の一つ『百姓伝記』が、当藩領に展開する農業の現実を背景にして著された。また西尾氏時代には、忠尚は江戸深川囃子(ばやし)を家臣に習得させ、城下三熊野(みくまの)神社の三社祭礼囃子として今日に伝えた。忠移・忠善は蘭学(らんがく)に関心が深く、蘭学者森観好を招き普及に努め、堀田多沖(たちゅう)、大久保一丘(いっきゅう)らの門弟が出た。忠国は、国学者八木美穂(よしほ)を藩校学問所教授とし歌道の発展に尽力させた。八木の思想は、幕末期の横須賀藩の行動選択に強い影響を与えた。また、忠移は甘藷(かんしょ)・甘蔗(かんしょ)の栽培を進め、忠善は安房(あわ)から鰯(いわし)漁の地引網法・搾粕(しめかす)製法を導入し、忠受は茶栽培を奨励するなど殖産興業に努めた。
1868年(慶応4)徳川宗家の駿府(すんぷ)藩成立に伴い、安房花房(はなぶさ)に転封となる。
[若林淳之]
『『大須賀町誌』(1980・大須賀町)』