正崇寺(読み)しようそうじ

日本歴史地名大系 「正崇寺」の解説

正崇寺
しようそうじ

[現在地名]日野町大窪 大窪町

大窪おおくぼの北にあり、浄土真宗本願寺派。川原山と号し、本尊阿弥陀如来弘誓ぐぜい(現滋賀県八日市市)などとともにいわゆる日野牧五ヵ寺の一つ。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔草創〕

西大路にしおおじの真宗大谷派興敬こうきよう寺と寺基を同じくし、開基円鸞により当初は京都に興性こうしよう(興正)寺として草創され、のち日野に移り蓮如の時代に二寺に分立したと思われる。正崇寺略縁記(寺蔵)によれば、佐々木高綱の息佐々木兵庫高吉が出家し、初めは天台を宗旨としたが、野洲やす木部きべ(現滋賀県中主町)にて親鸞に帰依し、円鸞と法名を許され、親鸞につき従い京都に上り、松原まつばら(現京都市下京区)辺りに興正寺を草創したという。一方、興敬寺の由緒書である明徳二年(一三九一)の興性寺次第(近江真宗諸寺文書)によれば、円鸞は某伊勢守の末子で俗名は伊勢兵庫介、五条西洞院ごじようにしのとういん(現京都市下京区)に住していたとき親鸞より法名と興性寺の寺号を下され、文永一一年(一二七四)に没している。


正崇寺
しようそうじ

[現在地名]上野市紺屋町

紺屋こんや町のほぼ中央部に北面して位置する。護法山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寛永絵図(岡森明彦氏蔵)にみえず、寛文(一六六一―七三)頃の絵図(上野市立図書館蔵)にみえる。「三国地志」に「按、四条院御宇、円鸞房俗姓佐々木伊勢守開祖。慶長年間空賢再修ス」とある。近江国大窪おおくぼ(現滋賀県日野町)の正崇寺の寺伝によれば、佐々木四郎高綱の末裔円鸞房開基、天正一四年(一五八六)空賢が二〇世住職となり、慶長一八年(一六一三)没とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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