弁護士、戦闘的ヒューマニスト。東京生まれ。戸籍上は昊(ひろし)だが、本人はひろしを常用した。東京府立三中卒業後、第八高等学校理科に進むが落第し退学。このときエマソンの『セルフ・リライアンス』(自己信頼)を読み共鳴する。第七高等学校文科を経て東京帝国大学法学部入学。1923年(大正12)卒業。東大在学中から千葉県佐倉中学、ついで長野県飯田(いいだ)中学で英語教師をし、24年中学を辞めて帰京。25年以降、売文業や受験生向きの私塾を開くなどして生計をたてるが疲れ、弁護士業を始めた。この間絵画の研鑽(けんさん)だけは欠かさなかった。32、33年(昭和7、8)ごろから腕利きの民事弁護士として知られるようになり、中堅弁護士として世俗的には成功を収めたが、その生活に飽き足らず、37年4月には「公共心と社交性」を満足させるべく個人雑誌『近きより』を創刊、3000余名の知人に呼びかけた。当初の社交雑誌はしだいに社会批評の度合いを強め、誌上、正木は東条英機(ひでき)首相を激しく弾劾するなど戦時下において不屈の思想的抵抗を貫いた。また44年には警察の拷問(ごうもん)による殺害事件を告発し権力犯罪に対決した(首なし事件)。この戦争末期に正木はキリスト教をもっとも身近なもの、真理と感じたという。戦後は食糧メーデーの際のプラカード事件弁護団に加わり、天皇制を痛烈に批判した。その後、三鷹(みたか)事件、八海(やかい)事件、菅生(すごう)事件、丸正(まるしょう)事件などの冤罪(えんざい)事件に取り組み、チャタレイ裁判では人類永遠のヒューマニズムの観点から弁護を行った。自然を愛し、作画を好み、卓越した自然科学的観察力と結合したヒューマニズムに基づいて権力悪に対決した自由主義的思想家・弁護士であった。
[北河賢三]
『『近きより』全5冊(旺文社文庫)』▽『『正木ひろし著作集』(1983・三省堂)』▽『家永三郎著『正木ひろし』(1981・三省堂)』
昭和期の弁護士
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
弁護士。本名は旲と書く。東京生れ。1923年東大法科卒。中学教員,画家,雑誌記者を経て,27年弁護士を開業。37年から個人雑誌《近きより》を刊行し,キリスト教的ヒューマニズムを基礎に,時代の狂信を批判した。44年警官による殺人事件(いわゆる〈首なし事件〉)で警察当局を弾劾。戦後はプラカード事件,三鷹事件,八海事件,菅生事件,白鳥事件などを弁護したが,〈人道主義〉をみずからの立場として,共産党とは一線を画した。丸正事件で被告を弁護するために〈真犯人〉を名指ししたため,名誉毀損で告訴され有罪となった。著書に《日本人の良心》《裁判官》《わが法廷闘争》など。
執筆者:長尾 龍一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…裁判では単独犯か多数犯かが争われ,吉岡は1953年,第二審の無期懲役の判決に従って下獄したが,阿藤ら4人は〈冤罪〉を主張しつづけた。この事件は,弁護士の正木ひろしが第一,二審の判決を批判して《裁判官》を書き,翌年,映画《真昼の暗黒》(監督今井正)も製作されて,社会の関心を集めた。これに対し最高裁長官田中耕太郎は〈裁判官は雑音に耳を藉(か)すな〉と訓示し,一審担当の裁判長藤崎晙も《八海事件》を書いて正木に反論した。…
※「正木ひろし」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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