日本大百科全書(ニッポニカ) 「歩行権回復主義」の意味・わかりやすい解説
歩行権回復主義
ほこうけんかいふくしゅぎ
pedestrianism
1960年代から70年代にかけて、欧米自動車先進国の諸都市で、増えすぎた自動車が歩行者の諸権利を奪ったのに対抗して、安全で魅力的な歩行者のための道路や施設をつくろうとする、歩行者の復権運動が盛んになった。この考え方を、歩行権回復主義という。
もともと道路は人間のものであった。人々は往来し、買い物をし、散歩し、出会い、立ち話をした。子供は遊び、学習した。道路はまた人間ドラマの舞台でもあった。ギリシア演劇、シェークスピア劇、歌舞伎(かぶき)、映画などで、道路や街路が背景になるものは多い。向こう三軒両隣や貧乏長屋の人情的なつきあいも、社交場としての路上が媒介していた。道路は家の延長であり、生活の場であった。
その人間のための道路から、自動車が人間を追い払った。自動車はさまざまな利便性のゆえにどんどん増え、都市では交通事故、渋滞、騒音、排出ガスなどによって、安全で快適で健康的な歩行環境がしだいになくなった。道路は車の洪水となり、生活圏は分断され、歩行者すなわち人間は路傍に歩道に横断歩道に押し込められ、歩くだけがやっとになった。通勤や通学も危険が増し、買い物や散歩や立ち話も気持ちよくできなくなって、人々のつきあいは薄くなり、子供を安心して外で遊ばせられなくなった。市街地は生活の場でなくなり、人々は郊外に脱出し、繁華街はさびれた。
そこで、自動車に奪われた道路を歩行者に取り返し、繁華街に活気を呼び戻すための試みが始まった。基本的な考え方は、自動車利用を歩行に切り替えるために、車にある程度の規制を加える一方で、安全で快適に歩ける歩行環境をつくり、補完的に自転車道や公共交通機関を魅力的に整備することである。要は、車の規制と同時に、人間が「抵抗なく歩ける距離」を伸ばす創意工夫がたいせつになる。
[玉井義臣]
歩行者街路
歩行者街路pedestrian island, mallは、歩道の縁石を取り除き、車道をかさ上げして歩・車道を平らにし、両側の建物に挟まれた道路全体を歩行者空間につくりかえ、舗装は歩行者用にかえ、樹木や花を植え、ベンチを置いて、安全で快適な雰囲気で歩行者が歩行を楽しめるようにしたものである。
代表的な成功例はドイツのミュンヘン市にある。中世から栄えたこの町は、1960年代に入ると経済活動が衰退してきた。車の増加で道路は危険で不快になり、住民は郊外に脱出し、外からの買い物客は減ったからである。64年、市議会は経済活力回復のための総合計画を決定した。まず、中心街を歩行者が安全快適に歩き回れ、買い物ができ、憩える、質の高い歩行者街路(モール)につくりかえ、その地下には、自動車に乗らなくてもこの町までこられるように、市営の地下鉄(Uバーン)と国電(Sバーン)を敷設し、アクセス(目的地までの交通手段)を確保した。72年、完成。歩行者通行量は2~4倍に増え、商店の売上げも30~40%あがり、経済活動は回復した。74年から旧西ドイツ政府は都市計画に特別予算をつけたので、87年時点でモールのある都市は700を超えるまでになった。
アメリカでもミネアポリス市のニコレット・モールが成功したほか、欧米諸都市でモールは広く普及して市民に好評である。
[玉井義臣]
生活の庭
「歩車分離」の歩行者街路は理想だが、道路が狭かったり道路の数が少ないとつくれない。オランダのデルフト市では「歩車共存」の原理を提案し、自動車が「人間の速度」=時速15キロ以上出せない道路構造につくりかえた。住宅街を一車線に狭め、25メートルの短冊形の通路を緩やかなジグザグ道につなぐ。つなぎ目にバンプ(歩道と同じ高さで2~3メートルの長さのこぶ)をつくる。車はバンプを乗り越えるとき速度を15キロ以下にしなければならなくなる。車線をつぶした部分は子供の遊び場になり、ベンチや植栽のスペースもでき、市民は「生活の庭」ボーンエルフWoonerf(オランダ語)とよんだ。旧西ドイツ政府はすぐこれを取り入れた。
[玉井義臣]
日本での運動
日本での歩行権回復運動は先進国でいちばん遅れている。
[玉井義臣]
歩行者天国その他
まず、「歩行者天国」が1970年(昭和45)8月2日、東京の銀座、新宿、池袋、浅草の盛り場で実施された。これは日曜祭日の一定時間に限って繁華街の一画の主要道路から自動車を締め出し、歩行者に開放しようというものであり、同年7月ニューヨークの五番街の実験に倣って行われた。その後全国に普及したが、欧米のモールと根本的に違うのは、恒常的なものでなく、途中、車道に分断されていたり、歩行者用舗装もなく、木陰もベンチもなく、歩く魅力に乏しいことである。だから、いまでは形骸(けいがい)化し、ほとんど廃止されている。モールとよべるものは、71年からの旭川(あさひかわ)市の「買物公園」、73年からの横浜市の「イセザキ・モール」がある程度である。
ボーンエルフの考え方も、1978年に宮城県の七ヶ浜町の住宅地で初めて採用され、埼玉県桶川(おけがわ)市と大阪市阿倍野(あべの)区長池でも取り入れられた。建設省(現国土交通省)も「コミュニティ道路」として補助金を出しているが、いずれも車が人間の速度で走る「歩車共存」まで至っていない。自転車道は、専用道路がほとんどないうえに、欧米のように車道の一部を占有させるのではなく、歩道を歩行者と共用させているためしばしば歩行権の侵害にもなっている。「コミュニティ道路」はその後、1996年(平成8)から「コミュニティゾーン」計画として展開されている。従来の線(道路)の開発ではなく、主要道路を含むブロック(区域)を選定して面(ゾーン)開発をしようというもので、東京・三鷹(みたか)市などで実施されている。
[玉井義臣]
ユックリズム
1973年から交通評論家玉井義臣(よしおみ)が提唱して始まった「ユックリズム」運動も、歩行権回復主義の実践としてとらえられる。玉井は、現代は大量生産―大量消費―大量廃棄の浪費社会で、これが加速されると資源枯渇、環境汚染、人類と地球家族の滅亡につながるとし、経済と欲望を抑える「減速」の哲学「ユックリズム」(ゆっくり主義)を訴えた。そして、資源蚕食、環境汚染、人間破壊の原罪をもつ自動車を「加速」社会の典型的元凶ととらえ、交通遺児を励ます会全国協議会では三つの実践運動を展開した。
まず、1973年5月の「ゆっくり歩こう」運動では、全国39都道府県で市民約2万人が車社会を告発しながら、「歩ける町を取り戻そう」と約30キロを歩いた。連続して歩ける歩道は、東京ですらなかった。2番目の運動は、同年6月から約3か月間の「赤トンボ号日本一周」で、交通遺児たちが一台の自転車を乗り継いで日本列島を走破した。自転車道はなく、白バイの護衛付きで無事ゴールインできた。3番目は、同年11月の「弱者のための町づくり」で、全国で約7000人が車椅子(いす)や盲人、老人や幼児、妊婦などハンディキャプトの目で「わが町わが道路」を点検しながら、だれもが安全で快適で健康的な道路を模索してゆっくり歩いた。翌74年、その点検結果をもとに、歩道の段差解消、緑陰とベンチの設置、歩道橋の廃止、自転車道の建設など21項目の要望を政府と都道府県に提出した。ユックリズムは内外のマスコミの報道で多くの人々の共感は得たが、流行語としてややムード的にとられ、思想の認識までには深まらなかった。
日本で歩行権回復運動が育たないのは、官・財・民あげての経済第一主義、便益優先主義、それに高すぎる地価、行政の硬直性、自動車産業側の圧力など多くの原因があるが、なにより日本人の権利意識の低さが欧米との運動の差になっているとみてよい。
[玉井義臣]
歩行者憲章
アメリカの建築家ブライネスSimon Breinesらは『歩行者革命』(1974)のなかで歩行者憲章として次のような点をあげている。「都市は歩行者を傷つけてはならない」「道路はすべての人間のものであり、自動車の通行・駐車のためだけに奪われてはならない」……「都市は人間そして歩行者全員の希望と文化のためにある!」、そしてこれらは「歩行者が結集する原点」であり、「歩行者革命の宣言である」としている。
[玉井義臣]
『S・ブライネス、W・J・ディーン著、岡並木監訳『歩行者革命』(1977・鹿島出版会)』▽『岡並木著『都市と交通』(岩波新書)』▽『玉井義臣著『ゆっくり歩こう日本』(1973・サイマル出版会)』