ギリシア演劇(読み)ギリシアえんげき

改訂新版 世界大百科事典 「ギリシア演劇」の意味・わかりやすい解説

ギリシア演劇 (ギリシアえんげき)

古代ギリシアでは笛・竪(たて)琴などの音楽,舞踊やものまね,独唱・合唱・物語など,多くの様態にわたる伝統芸能が太古より存在していた。それらの起源は前史時代にさかのぼり,ミュケナイ時代には先進オリエント文明からの影響も受けて,さまざまの発展をたどったものと思われる。後世ギリシア演劇を代表する悲劇,喜劇などの仮面演劇は,それらの伝統芸能の豊かな素地の上に成立した総合芸術である。

現存する最古の悲劇,喜劇,サテュロス劇(合唱団が,酒神ディオニュソスの従者として登場する半獣神サテュロスから成り立っている演劇)はいずれも前5世紀中葉の,アッティカ地方の主都アテナイにおける演劇活動の最盛期の産であり,すでにおのおのの完成した文芸形式にのっとるものといってよい。しかしその段階に至るまでの前史については資料が乏しく,多く推測に基づく仮説が唱えられている。

 ギリシア演劇の一つの特徴は仮面演劇であることに認められる。動物仮面を着用した群像はミュケナイ時代の壁画にも,前6世紀の黒絵式陶画にも描かれており,また,柔和な笑みをたたえた老人,老女の仮面は前8世紀のスパルタでも発見されている。しかし仮面の存在や仮面着用人物の描出と,文芸としての演劇誕生との間の隔りも大きく,その間には幾つかの生成段階を閲(けみ)したものと思われる。

 前4世紀の哲学者は演劇成立前史についてこう記述している。〈悲劇も喜劇ももとは即興的な試みから始まったのであるが,悲劇はディテュランボス歌の音頭取りたちの間から,喜劇はファロス歌の音頭取りたちの間から起こり,徐々に規模を大にし,幾度かの変形を重ねつつ,おのおのが到達すべき型にいたったものである〉と。このような古い歌舞音曲の場を背景として,役者が仮面を着用し神話や伝説の人物に扮して台詞(せりふ)を語ることが,演劇誕生の最初の契機となったのであろう。詩人テスピスがアテナイのディオニュソスの大祭(ディオニュシア祭)で初めて悲劇詩人として登場した(前536-前533年ころ)という伝承は,おそらくその辺の事情を告げるものと解される。当時アテナイは僭主政の下にあったが,やがて民主政が施行されるに及んで演劇はますます興隆をきたす。現存する〈ディオニュソス劇場上演記録碑文〉によれば,前502年ころより国営劇場での悲劇ならびにディテュランボス詩の上演が国家の行事として営まれ,前487-前486年次より喜劇もまた演目に加えられている。

 役者の登場は同時に台詞言葉の創造と改良を意味する。登場の〈場〉を設定するのは合唱隊(コロス。悲劇の場合古くは12名,のち15名からなる)の歌唱であるが,神話や伝説を素材としたその謡(うた)い言葉は古来ドリス方言の諸地で発達していた合唱演芸の言語と様式に依存していた。しかし役者の台詞はこれとは音韻的にかなり異なるアッティカ方言アテナイ人の方言)を用い,その韻律形式は(アリストテレスによれば)日常会話のリズムに最も近い〈イアンボス形〉を取り入れている。こうして悲劇,喜劇とも〈詩劇〉として伝統的な詩芸の措辞,技法を取り混ぜて成立した。そしてともに,台詞や語りの技法は互いに密接な関係を保ちつつ,徐々におのおのの特色を明らかにしていったもようであるが,悲劇の台詞,とりわけ役者の長口上や使者の報告部分の措辞,文法にはホメロス叙事詩からの影響が濃厚である。他方,喜劇ではその演劇構造の中核部分を占める〈パラバシス場面〉(合唱隊の持分で,本筋にかかわりなく作者の主張を観客に向けて直接訴える部分)は,古来の〈喋り〉の一型と目される台詞の型がそのままに維持されている。

 ホメロス叙事詩は例外として,悲劇,喜劇は古代ギリシア諸文芸の中で例外的な長さと規模を有している。現存作品の平均的な長さは一篇約1400詩行にわたり,これは同時代の合唱詩の約10倍の規模に達する。一篇の悲劇作品は序詞(プロロゴス=役者の語り),入場歌(パロドス=合唱隊の謡),役者場面(エペイソディオン=役者,合唱隊長の語り),歌謡部(スタシモン=合唱隊の謡)というぐあいに〈歌謡+語り+歌謡〉というおのおのの機能がはっきりと分かれた部分の組合せが幾度か交互に繰り返されて展開し,全体としては近世のオペラ様式と似ている。喜劇の場合も〈パラバシス場面〉を除外すれば,ほぼ同様である。

 演劇の初期,登場役者が1人であり扮する役柄も一,二の人物に限られていたころには,〈歌謡+語り+歌謡〉という基本単位も1,2度反復されるに過ぎなかったものであろう。しかし劇中人物の役柄が増加し,相互の関係が複雑化するにつれて役者の数も増し,劇の筋立てを展開するためには〈歌謡+語り+歌謡〉の基本単位も5,6度の繰返しが必要となったと思われる。悲劇の構成では一貫した筋の展開とその帰結が最も重視されており,上の基本単位の相互の配置結合にも因果関係が厳密に守られている。他方,喜劇では,少なくとも古喜劇の時代(前425-前405)では〈歌謡+語り+歌謡〉からなる単位場面の相互の関係は,必ずしも緊密というわけではない。とくに〈パラバシス場面〉では,合唱隊が扮装を解き,劇中の役割から離れて直接観衆に語りかけるので,筋の展開は完全に中断されることとなる。古喜劇においてこのような劇的イリュージョンを打ち砕くような場面が認められ,作者たちもこれに細心のくふうを凝らしているのは,舞台と客席が一体となって笑う大衆演劇の特色が喜劇の中心に生きていたためであろう。

 前5世紀のアテナイでは,毎年春のディオニュシア祭において,悲劇詩人3人がおのおの4篇からなる番組を,喜劇詩人5人が各1篇ずつを,さらにディテュランボス詩人10人が各1篇ずつを上演するという盛りだくさんの催しが行われていた。これらの製作費は富裕な市民たちが交互に分担し,直接合唱隊に参加した市民たちの人数も毎年ゆうに1000人を数えた。兵役男子の人口数万というアテナイではこれだけでもおびただしい数であるが,ディオニュシア祭のほかにも幾つかの演劇の定例行事が行われており,アテナイの演劇活動は名実ともに共同体あげての大規模な営みであったことがわかる。

〈悲劇と喜劇との差異は,悲劇が標準的人間よりも優れたものを表そうとするのに対して,喜劇はより劣悪なものを選ぶところにある〉とアリストテレスはいう。例えば,喜劇の合唱隊が鳥獣やカエルや,あるいは雲やハチなどのこっけいな扮装のもとに登場し,神々や人間の世界を揶揄するという趣向によれば,人間より下位のものどもが自分たちよりもさらに下位にあるものとして,神々や人間の諸欲をあげつらい嘲笑を浴びせるおかしさが生まれる。もとより喜劇詩人には禁欲を説く姿勢はない。諸欲の詰まった傀儡のような風船人間を思いきり膨らませ,ついに限界を越えた風船がはじける様を見せ笑わせる。このような視点と題材処理の手法は,同じ素材を扱う悲劇詩人との対比において明瞭にされよう。

 例えばアイスキュロスの悲劇《縛られたプロメテウス》では,火の神プロメテウスはやむにやまれぬ人間愛に促され,天上の火を盗み人間に与え,技術を授け,文明世界の創造のために己が身を犠牲にする崇高な英雄として扱われている。しかし同時代の喜劇詩人エピカルモスは,プロメテウスを大盗人にしたて,人間も何を盗まれるかと戦々恐々としている様を語っている。演劇の神ディオニュソスも,エウリピデスの《バッコスの信女》の中に現れるときは凄惨な密儀宗教をつかさどる恐るべき神であるが,同じとき書かれたアリストファネスの《蛙》の中では,臆病で定見のない一人の演劇評論家にすぎない。神々のみならず伝説的な英雄たち,現実社会の有名人や権力者たちも,喜劇の舞台ではきわめて低俗な欲望の操り人形として容赦なくこきおろされる。古典期ギリシア演劇の第一の特質は,悲劇と喜劇を同時に創り出し,このように徹頭徹尾対照的な二つの鏡面の間に,人間行為の真実をとらえようとしている点である。崇高でもありこっけいでもありうる人間とは,ほんとうは一体何であるのか,それを観客に問いかける。

初期段階のギリシア演劇ではおそらく,役者の語りには叙事的要素(喜劇の場合には観客に対する直接的呼びかけ)が濃く,対話部分は僅少であったと思われる。アイスキュロスの時代に役者が同一場面に2人登場し対話を交わすようになっても,叙事的語りの要素は会話的要素よりもなお大きい部分を占めている。登場人物同士の説得,嘆願,脅迫,阿諛などを含み,複雑に屈曲した台詞の交錯が一方の志向を他方の意志に従わせる,そのような演劇的場面が現れるのはアイスキュロスの〈オレステイア三部作〉をもって嚆矢とする。演劇は神話,伝説の活人劇として叙事的技巧に依存していてよいものではない,演技者の台詞はあるできごとに至る状況の認識と判断,決意と勇気を告げ,ある一つの行為を行為ならしめた諸力を表出するものでなくてはならない。この発見が,ギリシア演劇における対話技術の目覚ましい進展を促す力となり,ひいては演劇構造(筋立て)のくふうと演劇的人間像の創造に連なったと思われる。

 ソフォクレスの《アンティゴネ》では劇中対話の彫琢技術はアイスキュロスを凌駕しているが,作品全体の構造はまだアイスキュロスに近い。しかし《アイアス》では,恥辱にまみれた誇り高い一人の男が最後の決断に至る苦悶の過程を一本の筋とし,彼の選択の意味づけを劇の結末とする。この構造はソフォクレス悲劇の基本を画しているといってよい。彼の劇中に登場する主人公たちは,男女いずれも決断に至る過程においては懊悩し不安に駆られ,人間として避けられない弱さを露呈する。しかし彼らが最後のよりどころとする人間としての誇りと廉恥の心情は,深くギリシア人の倫理的価値観に根ざしている。〈あるがままの人間〉の心底にひそむ〈あるべき人間〉の姿があらわにされ,最終的には優位を占める,ここにソフォクレス悲劇の世俗的成功の秘密があったのかもしれない。

 エウリピデスの悲劇は,ソフォクレスと同様に神話,伝説を素材とする。そして極限状態に追い込まれていく過程を表出する会話の技法もソフォクレスに優るとも劣らない。しかしエウリピデス悲劇で,せっぱ詰まった人間たちが最後にすがるのは倫理的価値ではない。かれらは不安定な没価値的な外的な力,あるいは内的な衝動に身を投げかける。《メデイア》や《ヘカベ》のように,いかなる思慮分別もせき止めることのできない狂乱激怒が,最後の動機となって奔出することもある。《ヒッポリュトス》では,恥を忘れた女性の恋と恨みが,恥を知る若者を破滅させる。しかしこの世で最も不安定にして没価値的力は〈偶然〉であろう。ソフォクレスは《オイディプス王》で,〈偶然〉の重なりを背景に想定しているけれども,劇中の主人公の行為はみずからの政治的責任を貫徹する。しかしエウリピデスのイフィゲネイアオレステスは,〈偶然〉のために危機に瀕し〈偶然〉によって救われるが,そのはざまの苦悶をたえていく。〈偶然〉にこれほどの重みを与え,没価値的力の跳梁を許したのは,詩人エウリピデス自身の悲観思想であったのかもしれない。しかしながら,彼の劇場において最も不安定で没価値的なものといえば,当時のアテナイ人観客の群衆心理であったかもしれない。またそれはあるがままの一人の人間の心に起伏する感情の波であったということもできる。エウリピデスの最晩年の作《バッコスの信女》は,その二つの渦流に翻弄される一人の人間をとらえている。ペンテウスは己の怪しげな欲情のとりことなり狂乱の女たちの手で惨殺されるのである。エウリピデスの劇中人物たちの究極の動機は倫理的判断ではない。物心すべての装いをはぎ取られた人間の最後のよりどころが,あるときは生物的本能であり,あるときは迷妄や執念であることがあらわにされるのである。

アリストファネスの古喜劇作品の構造的特色は,〈パラバシス〉を中心とする大衆演劇の線を維持しながら,これに悲劇とりわけエウリピデスのパロディを組み合わせ,喜劇独自の筋立てを考案した点に認められる。彼の奇想天外な筋と,その筋書きを実現するこっけいきわまる登場人物との組合せは,猥雑な冗談やたわいない個人攻撃を織り混ぜながら,時の政治とはかかわりなく市民一人一人が心の底に抱いている平和や繁栄への健やかな願望が前面に押し出され実を結ぶようにくふうされている。古代アテナイの民主政下でもとくに喜劇詩人たちが許されて享受した,驚くばかりの言論の自由は,〈笑い〉という一種の治外法権の設定によって,その中での文学的成熟を遂げたものであろう。

 しかし古喜劇が誇るのは奔放な自由だけではない。古喜劇の詩人たちは伝統的な神話,伝説の外に,筋立てと登場人物を設定し,新しい話を創造する自由と,その自由を劇の内面から規定する構造的法則とをつかんだのである。前400年以降,アテナイは政情に激変をきたし,喜劇詩人たちは政治批判や個人攻撃には背を向けるが,彼らが古喜劇時代から継承した〈創作の自由〉はなお生き生きと,中喜劇,新喜劇の時代に受け継がれ,新しい形態の演劇活動を生むこととなる。アリストファネスの最晩年の作《福の神》(前388)から新喜劇の作者メナンドロスの初(優勝)作《デュスコロス》(前316)までの約70年間,悲劇の新作は激減し,とみに悲劇は〈古典芸能〉視される運命にあったが,喜劇の分野では(作品は伝存していないが)その時代は,新しい筋立てと登場人物の組合せをめぐる活発な試行錯誤の実験が重ねられ,ついにメナンドロスによる人間喜劇の誕生をみる。その間に,喜劇はかつての構造的中心であった〈パラバシス場面〉を失う。大衆演劇としての特色は希薄となったけれども反面,喜劇には初めて首尾一貫した筋立てが備わることとなったのである。

〈人生よりも人生さながら〉と古代人が評したメナンドロスの喜劇とは,実は前5世紀の悲劇とりわけエウリピデス悲劇の〈あるがままの人間〉と,喜劇芸術が変貌を遂げつつ求めてきた筋立てと登場人物の組合せとが,一つの芸術的映像に統一されたものということができる。《盾》の中の幸運の女神や,《デュスコロス》の牧神パンの口上はエウリピデスの《イオン》の狂言回し役ヘルメスの姿をほうふつとさせる。しかしエウリピデスの筋立ての中心には人間と神々の間の不信と憎悪が渦を巻いているのに比べて,メナンドロスでは老若男女の間の結婚や財産をめぐる思惑が劇的葛藤の中心にあり,神々はその解決に手助けをする役回りにすぎない。

 神々の姿が周辺に遠ざかることはまた,人間描写の視点と技法にも大きな変化を招く。神話,伝説の英雄烈婦を登場させたり,貪欲な政治家や破天荒な空想家を描くことは前5世紀の悲劇,喜劇の常とう的な手法であった。メナンドロスの喜劇にも吝嗇漢や正義漢,軍人,娼婦,奴隷,肉屋など,古喜劇の時代からおのおののタイプとして類型化,固定化した役割人物がしばしば登場する。しかしそのような人物たちも固定された仮面表情の陰からその人ならではの内心のつぶやきを漏らしたり,外形的に予測される反応とは異なる行為にでることも少なくない。このような仮面と台詞との新しい組合せのくふうも実はエウリピデスに始まるものであるが,メナンドロスに至ってさらにいっそう近代的演劇のいう意味での〈性格描写〉に近づく。メナンドロスの台詞は高度の修辞的なくふうにとむ詩の言葉であるから,近代的な意味の写実性は乏しいものの,悲劇と喜劇との融合点に新しい演劇の天地をひらく作者の意図はここにも十分に尽くされているといえよう。

 メナンドロスの喜劇は彼の生時アテナイの一般観衆の熱狂を誘うものとはならなかった。しかし過去の文学的遺産は新しい創造の糧となることによって輝きを増す。実にその真実はメナンドロスや仲間の新喜劇の詩人たちの作品の運命についてあてはまる。彼らの作品は1世紀も経ぬうちに,新興ローマの喜劇詩人たちの創作の血肉と化していく。彼らの登場人物はそのままの名前でローマ人の劇場を闊歩したのみか,彼らのしぐさやユーモアは中世イタリアの大衆演劇コメディア・デラルテに至るまで生き続けていく。

 新喜劇以後のヘレニズム期のギリシア演劇作品についてはわずかな断片しか伝存していない。しかしこの時代の諸都市を飾っていた壮麗な大劇場の遺跡は今日なお数多く知られており,演劇が興行的にはかつてない盛況をきたしていたことを告げている。またその間,エジプトのアレクサンドリアでは,古典期アテナイの演劇作品の集輯校訂作業が行われ,今日伝存する中世写本の祖本が完成したことも最後に特記しておきたい。
ギリシア文学 →ローマ演劇
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ギリシア演劇」の意味・わかりやすい解説

ギリシア演劇
ぎりしあえんげき

古代ギリシアの演劇として顧慮すべきは、悲劇、喜劇、サティロス劇、ミモス劇の4種である。西洋演劇史の源流として重要な地位を占めるのは悲劇と喜劇であり、悲劇ではアイスキロス、ソフォクレス、エウリピデス、古喜劇ではアリストファネス、新喜劇ではメナンドロスの戯曲が現存する。いずれもアッティカ地方の都市国家たるアテナイ(アテネ)の詩人であり、悲劇、喜劇はアッティカ悲劇アッティカ喜劇ともよばれる。

 演劇は文化の根源的形態の一つであり、ことに農耕地帯では世界各地に儀礼と不可分の芸能が生じている。各種ギリシア演劇の起源についても酒神ディオニソス崇拝との相関が推察されるが、この問題には論議が多く定説はない。だが、悲劇、喜劇という高度の演劇はアテナイにおいてのみ成立したのであり、僭主(せんしゅ)時代の統治者ペイシストラトスが地方の酒神祭礼を国家行事とし、その実質を悲劇競演と定めたことが母胎である。この毎年3月中旬に行われる「大ディオニシア祭」最初の優勝者は、悲劇の祖、紀元前534年のテスピスとされている。その後アテナイでは僭主制が廃され、民主制のもと、前490年、前480年の勝利を含む対ペルシア戦争が遂行される。緊張のさなか前487年には喜劇競演も同じ大祭に組み込まれ、両演劇は時勢を鋭く反映しつつ、アテナイの消長と運命をともにした。

[細井雄介]

劇場

ギリシア劇は日中野外で行われる演劇であった。今日各地に残る石造の劇場は後代の遺構であり、アテナイのディオニソス劇場盛時の姿は推定によるほかないが、劇場の三大要素はオルケストラとテアトロンとスケネである。

 オルケストラorchestraとは「舞踏の場」を意味し、アテナイのディオニソス劇場では直径約20メートルの正円形という推察がある。ここでは主として劇の合唱隊が活動するが、俳優も登場し、また劇以外にもディティランボスdithyrambosとよばれる合唱歌の競演が行われた。合唱隊の員数は、悲劇12人(ソフォクレスが15人に改める)、サティロス劇も12人、喜劇24人で、いずれも方形の隊列(ディティランボス合唱隊が円形に並ぶのと根本的に相違)を組んだ。

 テアトロンtheatronは英語theatre(演劇・劇場)などの語源をなすが、本来は観客席のことである。その収容力には国家行事にふさわしい規模が要請されたはずであり、アクロポリスの山腹に、オルケストラを中心の底部として扇形に上ってゆく急斜面を用いて木組みの客席が設けられていた。のちに改造、前330年ごろに完成された石造のこのディオニソス劇場では、1万4000から1万7000の観客を収容できたといわれる。

 スケネskeneとは平屋根をもつ木組みの楽屋のことで、オルケストラを挟んで扇形の観客席に向かい合う位置にあった。合唱隊はスケネ両翼に伸びる通路(パロドス)parodosを用い、俳優はこれとスケネの戸口をも利用してオルケストラへ登場したと思われる。合唱隊と俳優とは同じ平面で劇を演じた。俳優のための舞台が一段高くなるのは後代のことである。観客席に面したスケネ前面はプロスケニオンproskenionとよばれ、ときには場景を表す絵も設置されたらしい。今日「場面」などを表すシーンsceneという語もここに由来する。

 アテナイの演劇はのちに各地に波及し、ヘレニズム時代には広く大小の都市に石造の劇場が建ち、アテナイの劇場の基本構造はローマでも引き継がれた。

[細井雄介]

合唱隊と俳優

結束の固い共同体では、戦勝のおりとか婚礼や葬儀その他の祭儀に、合唱の群れがたやすく組織されたのかもしれない。その後裔(こうえい)と推定される合唱隊(コロス)chorosを率いてテスピスは自ら第一の俳優protagonistになったという。盛時の悲劇では、アッティカの10部族がそれぞれ精鋭を選んで合唱隊をつくり、あらかじめ厳しく訓練して競演の日を迎えた。テスピスに次いで、アイスキロスが第二俳優deuteragonist、ソフォクレスが第三俳優tritagonistを加えたが、その後の増員はなかった。すなわち、劇中人物が何人登場しても、すべての役を3俳優でこなさなければならず、また一場面で発言できる人物も3人までに限られたのである。だが、この厳しい制約があればこそ、かえって詩人たちは比類なく凝縮度の高い劇を創造できたともいえよう。俳優の選ばれ方は不明だが、前5世紀末には多少とも俳優の専門的職業化が進んでいたらしい。合唱隊員および俳優はみな男性であり、仮面をつけて登場した。

[細井雄介]

仮面と衣装

ギリシア悲劇は仮面劇であり、最後まで仮面を失わなかった。これは大劇場で人物の面貌(めんぼう)をはっきりみせる仮面の機能によるためであろうが、酒神ディオニソスの祭儀という宗教的特質に起因しているかもしれない。仮面の材質は木、コルク、布などで、朽ちやすかったため遺品はないが、その実際は壺絵(つぼえ)から推察できる。時代は彫刻の発展期であり、彫刻にみられる清潔で鋭い様式は仮面にも明白である。ただし演劇の仮面であるため、その口はかならずなかば開いていた。悲劇の俳優が背丈を高くみせる不自然な高靴コトルノスkothornosや、前額部を高く飾るオンコスonkos付きの醜怪な仮面は後世の所産である。盛時の演劇は生気にあふれる自然な舞台であったとみるべきであろう。

 古喜劇では、俳優や合唱隊員は肉襦袢(にくじゅばん)を着て、腹や臀(しり)は詰め物で膨らませ、男性ならば大きな陽根をつけていた。新喜劇になると、これら誇張の激しい姿態は排除されて、日常を映す市井劇が成立した。

[細井雄介]

ギリシア悲劇

悲劇トラゴイディアtragoidiaの原義は「山羊(やぎ)の歌」であるが、これが何を意味したか明らかでない。ただ、サティロス劇とともに、最初から酒神ディオニソスと深い関係にあったことは確かと考えられる。だが、この演劇形式に精神を与えたのはアテナイの詩人たちであり、悲劇の真の創始者はアイスキロスであった。悲劇詩人はただ1日の上演を目ざして悲劇3作とサティロス劇1作を毎年当局に提出する。選考の結果3詩人が選ばれ、これら3人にはそれぞれ合唱隊が与えられて四部作(悲劇としては三部作)の劇が上演される。上演費用は各詩人についた富裕な有力者がいっさいを負担し、詩人は作曲までも含めて演出全般を担当した。毎年ただ一度、3日間の悲劇上演にアテナイは絶大な精力を投入したのである。3日にわたる競演後、審判官が等級をつける。一等を得た詩人が優勝者である。

 ところで、悲劇詩人の眼前には叙事詩人ホメロスの歌い上げた新しい人間像があった。アキレウスなど英雄たちの姿である。これらの英雄は、己の責任において決断し独自に行動できる、いわば高度の質を備えた輝かしい人格であり、ギリシア文化が初めて世界に贈ったといえるほどの存在であった。しかし、それらの英雄が描かれた叙事詩、神話、伝説などはいっさいをすでに完了せるできごととして語り、いかなる波瀾(はらん)をも静かに納めている。このような叙事的世界の英雄たちを悲劇詩人がよみがえらせたのである。あらゆる行為は合唱隊の注視のもと、合唱隊の圧力に耐えて展開されねばならない、というのがギリシア悲劇の基本構造である。つねにいまの立場で物事を判断してゆく合唱隊の面前に、ひとたび劇の登場人物として呼び出されると、それまで静かに眠っていた英雄たちはそれぞれ、たちまち未来との緊張に生きる生身の激しい姿に変わり、ここに後世の演劇史を触発してやまぬ劇的存在が成立した。このような劇的存在がいかなる意味を伝えることができるか、アテナイの人々はこれをよく自覚して、市民も詩人も等しく悲劇上演に熱意を注いだのであろう。

 前406年にエウリピデス、ソフォクレスが相次いで亡くなり、悲劇は実質的に終わりを告げるが、このとき都市国家アテナイもすでに衰退の途にあった。その後も上演自体は、旧作再演の方策もとられ新作も多く、ヘレニズム時代にも各地の劇場で盛んに行われたが、残された戯曲はついに先にあげた三大詩人に限られている。

[細井雄介]

ギリシア喜劇

喜劇コモイディアkomoidiaは原義もさだかでなく、古い時期のことはわからず、発展の系譜も不明である。前487年アテナイの国家行事に組み込まれた喜劇上演は、3日間の悲劇上演に続く1日、各人1作を提供する5人で競われた。喜劇では時代も離れ実質も異なるので、古喜劇と新喜劇の別がたてられている。

 古喜劇として残っているのはアリストファネスの11編、前425年から前388年にかけての戯曲である。この時期、ペロポネソス戦争でスパルタ側を相手とするアテナイは敗色を強めて荒廃へ向かった。その趨勢(すうせい)のなかでアリストファネスは、アテナイの戦争政策に反対する保守家として積極的に発言した。古喜劇には、劇中人物が相対立する主張を言い争うアゴンagonという部分と、合唱隊の持ち分で、本筋にかかわりなく作者の主張を観客に向けて直接訴えるパラバシスparabasisという部分とがあり、両者を存分に利用できたのである。このような特有の構造からなるために、古喜劇はあまりにも時代に密着して政治色を濃くし、その印象の迫力は世界喜劇史に際だって強烈であるが、反復して後代に伝えやすい類型になることがなかった。

 過渡期の中喜劇は作品が残っていないが、新喜劇はメナンドロスの断片が近年発見された。発見以前にも、ローマの翻案劇を通じてその作風はかなり知られていた。いずれも同工異曲の恋の物語であり、ここで考案された喜劇的状況はその後も長く引き継がれて、西洋における喜劇史を豊かにさせる素材となった。だが合唱隊は政治的意義を失い、劇と関係のない幕間(まくあい)音楽の担い手に堕していた。歴史を動かす大勢力はすでにギリシアを去ってローマのほうへ傾こうとしている時代の所産が新喜劇であった。

[細井雄介]

サティロス劇

滑稽(こっけい)な内容で哄笑(こうしょう)を招くが、喜劇と取り違えてはならぬ異質の演劇である。これは、悲劇競演における1日の上演の締めくくり、すなわち3部の悲劇にかならず続く結尾の部分をなし、合唱隊はそれまで悲劇を演じてきた同じ連中であった。サティロスSatyrosとは酒神ディオニソスの眷属(けんぞく)で半人半獣の山野の精であるが、アッティカ地方ではシレノスSilenosともよばれた。舞台には合唱隊が猥雑(わいざつ)な衣装で馬の耳と尾をつけて登場、滑稽な状況に置かれた神々や悲劇の英雄を取り巻いて行動する。厳粛な行事のあと息抜きを求める均衡感覚が、両演劇の不可分の結合を固持させたのかもしれない。エウリピデスの『キクロプス』1編が完全作として伝えられている。

[細井雄介]

ミモス劇

前述した演劇と異なり、国事に制定されなかった雑芸的演劇がある。ミモスmimosとは、身ぶり物まねを意味するが、動物や人間の姿態を注視してその特徴の模倣に走るのは人間の根源的衝動の一つであり、これに基づく雑芸はいつでも至る所に生じることであろう。そのなかでシチリアではプリアケスphlyakesといわれる笑劇があり、前500年前後に活躍のエピカルモスがこれをもとに、神話伝説の茶番化を筋とする短い戯曲を書いたが、すべて消失した。ついで同地方でエウリピデスと同じころソフロンが「ミモス」と称する散文劇を創始、短い対話で日常生活を素描風に活写した。その戯曲も散逸したが、影響は大きく、同系統の後代作家にテオクリトス、ヘロンダスがあげられる。これらは文学の体裁を得た例だが、合唱隊をもたず1人ないし数人で典型的な性格や風俗を模倣し、淫猥(いんわい)な要素も多分にはらむ即興的なミモス劇は種々存在し、なかには悲劇の粗筋を1人の黙劇ですべて演じ尽くすパントミモスpantomimosもあった。

 これらの雑芸がローマ時代に移ってミムス劇とよばれ、正統的演劇を圧倒しつつ帝国の版図とともに各地に広まり、キリスト教による抑圧に至るまで市民に愛好されていた。

[細井雄介]

影響

演劇的芸能は無数にあるが、これが最高度の発展に達すると、人間の姿を宇宙全体との相関において描き尽くしうる芸術は「演劇」のほかにないということをギリシア演劇は史上初めて立証してくれた。後代の諸民族が等しくトラジディtragedy、コメディcomedyなどとギリシア語音を移して同種演劇の創造に励みつつ演劇史の主流をつくり、ついにわが国まで「悲劇」「喜劇」の邦訳新造語を定着させるに至った事実だけでも、ギリシア演劇の影響は絶大といえよう。ことに悲劇については、盛時の演劇は終わっていたが、アリストテレスが『詩学』で悲劇の構造分析と本質究明に尽くし、その洞察は演劇を超えて広く芸術研究の最高峰を極めている。また近くは、ニーチェが悲劇研究に基づく鋭い文化批判で現代思想を導き、フロイトが悲劇の英雄に深い意味を認めて精神分析を進展させ、現代の文化人類学者が神話研究から文化の深層に迫りつつあるように、ギリシア演劇は文化の根源として学問史上無視できない。

 ギリシア演劇は、ようやくルネサンス期に伝存手稿が公刊されても、長らく戯曲として読まれるだけであったが、20世紀には復古上演の機運も生じ、1936年以来ギリシア国立劇場は現代語による古劇上演を続けている。他の諸国でも世界各地にわたっておりおりにギリシア劇は翻訳され上演されており、よみがえった英雄たちが今後舞台上から完全に消えることはけっしておこらないであろう。

[細井雄介]

『高津春繁著『古代ギリシア文学史』(1952・岩波書店)』『『ギリシア悲劇全集』全4巻(1960・人文書院)』『『ギリシア喜劇全集』全2巻(1961・人文書院)』『中村善也著『ギリシア悲劇入門』(1974・岩波書店)』『川島重成著『ギリシャ悲劇の人間理解』(1983・新地書房)』


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百科事典マイペディア 「ギリシア演劇」の意味・わかりやすい解説

ギリシア演劇【ギリシアえんげき】

古代ギリシアで行われた演劇で,悲劇,喜劇,サテュロス劇(ディオニュソスの従者に扮したコロス=合唱隊が登場する劇)などが挙げられる。特に悲劇と喜劇は西洋演劇の源流となった。悲劇はディテュランボスに,喜劇は風刺歌にはじまり,いずれも古い祭儀や歌舞音曲の場から発生したとみられ,詩人テスピスがディオニュシア祭で初めて悲劇俳優として合唱隊と対話したという伝承がある。唱舞する合唱隊と俳優の台詞の繰り返しがギリシア演劇の特徴の一つで,その台詞のスタイルはホメロスの叙事詩の影響が濃厚である。初期には一人の役者がいくつかの役柄を演じ分けたが,次第に筋立てが複雑になり登場人物も増えると,役者の数も増した。ギリシア演劇は野外劇であり,その劇場は合唱隊と俳優のいる正円形のオルケストラ,それを扇形にとりまくテアトロン(観客席),オルケストラを挟んで反対側のスケネ(楽屋となる建物)からなる。仮面劇であることも大きな特徴の一つで,誇張の激しい衣装もみられた。前5世紀ころのアテナイのディオニュシア祭では悲劇詩人3人が各4編,喜劇詩人5人が各1編ずつを上演した。悲劇ではアイスキュロスソフォクレスエウリピデス,また古喜劇のアリストファネス,新喜劇のメナンドロスの作品が伝存する。→ギリシア悲劇ギリシア喜劇
→関連項目演劇

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ギリシア演劇」の意味・わかりやすい解説

ギリシア演劇
ギリシアえんげき
Greek theatre

ディオニュソス (バッカス) 神を祀る宗教儀式のなかから発生し,毎年春と冬に国家行事として行われた祭典の一部となって発展した。初めは,合唱団 (コロス) が重要な役割を占めたが,やがて俳優が出現して演劇的要素が強くなるにつれ,コロスの機能は減じ,ついには消滅した。最初の悲劇詩人はテスピスとされるが,三大悲劇詩人といわれるアイスキュロスソフォクレスエウリピデスの作品が現存している。喜劇ではアリストファネスが代表的作家。いずれも舞台装置を用いない野外劇場で,仮面を着けた俳優によって演じられた。近代ギリシア演劇は,独立運動と結びついて 19世紀初めから興り,H.イプセンの影響を受けた作家たちも現れた。また 20世紀になって,古典劇の野外劇場における復活上演も試みられている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ギリシア演劇」の解説

ギリシア演劇
ギリシアえんげき

古代ギリシアで行われた演劇
一般にギリシア演劇は,ディオニソスの神にささげる祭典から起こったといわれる。野外の円形劇場で登場人物が仮面をかぶり,対話を主としながら,合唱(コロス)に呼応して劇を進行させる。なお当時の悲劇は,たんに娯楽でなく,ポリスの国家的行事と考えられており,観劇手当も支給された。悲劇はペルシア戦争後のアテネでアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの三大悲劇詩人によって大成された。喜劇は,日常生活に取材して当時の世相に対する鋭い風刺を行い,アリストファネスが代表者である。

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世界大百科事典(旧版)内のギリシア演劇の言及

【古典劇】より

…ただし,古典劇という言葉を日本の演劇史に適用することはまれにしか行われない。 狭義の古典劇の第1は,古代ギリシア演劇,古代ローマ演劇のことである。ギリシア悲劇とギリシア喜劇は前5世紀のアテナイを中心に花開き,三大悲劇詩人のアイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデス,古喜劇のアリストファネスたちが活躍した。…

※「ギリシア演劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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