1947年(昭和22)2月1日午前零時を期し、官公労働者約260万人を中心に計画されたゼネラル・ストライキ(ゼネスト)で、マッカーサー連合国軍最高司令官の命令で中止された。
急激な戦後インフレで労働者の生活不安はひどく、民間労働者は前年の十月闘争で賃上げをかちとったが、官公労働者の賃金は予算に縛られ、民間労働者の水準にはるかに及ばなかった。11月26日、全日本教員組合協議会(全教協。現日本教職員組合=日教組)、全逓信(ていしん)従業員組合(全逓。現全逓信労働組合)、国鉄労働組合総連合(後の国鉄労働組合=国労)、全国官公職員労働組合協議会(全官公労協。現全日本官公職労協議会=全官公)などは全官公庁労働組合共同闘争委員会(全官公庁共闘)を結成し、12月3日、越年資金の支給、最低賃金制の確立、勤労所得税の撤廃、総合所得税の免税点を3万円に引き上げよなど、共同要求10項目を政府に提出した。しかし、政府は越年資金を承認したほかは要求を拒否したため、日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業別労働組合会議(産別会議)など全国労働組合懇談会主催で12月17日、皇居前広場で開かれた生活権確保・吉田内閣打倒国民大会には、官公労働者を含む50万人(主催者発表)が参加し、内閣打倒(倒閣)実行委員会の組織が決められた。
1947年元旦(がんたん)、吉田茂首相が年頭の辞で労働運動指導者を「不逞(ふてい)の輩(やから)」と非難したため、全官公庁共闘や各組合の闘志は高まり、1月15日総同盟、産別会議、全官公など30組合、400万組合員からなる全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が組織された。全官公庁共闘は18日に、2月1日ゼネスト突入を宣言し、政府もようやく事態収拾に乗り出し、官公庁職員給与を暫定措置として平均1.5倍に引き上げると発表、連合国最高司令部(GHQ)もスト計画に警告したが、全官公庁共闘はこれを拒否した。28日皇居前広場で開かれた吉田内閣打倒・危機突破国民大会には40万近い組合員が集まり、吉田亡国内閣打倒、社会党中心の民主政府の樹立など30項目のスローガンが掲げられた。この日、中央労働委員会は現給与の約2倍の平均月1200円の調停案を共闘・政府に示したが、双方とも拒否し、ゼネストは必至になった。しかし、31日午後、マッカーサーはスト中止を命令し、伊井弥四郎(やしろう)全官公庁共闘議長らにスト中止指令をラジオ放送させた。ゼネストは不発に終わり、占領政策はこれを契機に労働運動の抑制に移り、また産別会議では指導方針に対する自己批判問題が発生した。この闘争を通じて総同盟、産別会議を含む全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成され、労働戦線統一が一歩前進した。
[松尾 洋]
『斎藤一郎著『2・1スト前後』(1956・青木書店)』▽『伊井弥四郎著『回想の2・1スト』(1977・新日本出版社)』▽『鈴木市蔵著『証言2・1ゼネスト』(1979・亜紀書房)』
1947年2月1を期し官公庁労働者が計画したが,その前日にマッカーサー最高司令官の命令で禁止された幻のゼネラル・ストライキ。1946年の10月闘争後,官公庁労働者は最低基本給600~650円,越年資本金本人1200~1500円などの要求をそれぞれ各官庁に提出,11月26日には国鉄,全逓,全教組,全官公労協,全公連(全国公共団体職員労働組合連合会)の5組合156万人が全官庁共同闘争委員会(共闘,議長伊井弥四郎)結成した。12月3日,あらためて統一要求を政府に提出したが,10日の回答も18日の中労委の調停案も満足できるものではなかった。17日の社会党提唱の生活権擁護吉田内閣打倒国民大会を経て,さらに47年1月1日の吉田茂首相の〈不逞の輩〉発言がいっそう闘争の炎をかきたて,18日に2月1日を期してのゼネスト宣言を発せられた。この間15日には産別会議,総同盟,日労会議等33組合600万の全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が共闘の外郭団体として組織され,ストライキ必至の形勢となりつつあった。吉田首相は自社連立内閣による事態解決を図り,GHQもマーカット経済科学局長らが22日から干渉にのりだし,スト防止を指導したが強制力をもたず,28日には中労委が16歳650円,平均月収1200円等の調停案を提示したが,政労双方から拒否され不調に終わった。この間,共産党はGHQの弾圧はないという前提で産別会議を通じ,経済闘争を吉田内閣打倒,民主人民政府樹立という政治闘争に発展させるよう指導し,大詰めの段階では社共連立政権構想さえ話題にしていた。30日には政府内部の吉田首相の強硬路線批判者が更迭され,共闘内部にも動揺が生じたが,結局31日午後2時半のマッカーサー声明で終止符が打たれ,伊井共闘議長の同夜の涙ながらのラジオ放送で終息した。
これまでに高揚した状況を反映して,4月選挙で衆議院とも社会党が第一党となり,新憲法下初の組閣をし,また3月,全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成され,いちおう労働戦線は統一された。しかし産別会議は政治主義的指導方針の自己批判の過程で衰退し,民主化同盟(民同)の台頭をみるなど,二・一ストは戦後労働運動の転機となった。
執筆者:神田 文人
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… 日本では,全国的ゼネストが行われたことはかつてない。第2次大戦敗北後の1947年2月1日に,二・一ストがゼネストとして計画されたことがあるが,直前になってマッカーサー命令で中止された。ストライキ【遠藤 公嗣】。…
… 戦後の労働運動は,敗戦から今日にいたるまで企業別組合をベースにして展開してきたにもかかわらず,時代によって運動の様相は転変してきた。やや大きな区切り方をすれば,(第1期)急激な組織化をてことする〈経営民主化〉運動の進展をみたのち,二・一ストの挫折を契機として運動の分裂・後退をみるにいたった時期(1945‐50),(第2期)サンフランシスコ体制の形成のもとで労働組合が再生しはじめ,春闘体制の形成をみた時期(1951‐60),(第3期)春闘体制の全面化にもかかわらず,民間大企業における能力主義管理のもとで,職場の労働運動が活力を失っていった時期(1961‐74),(第4期)石油危機のもとで〈管理春闘〉化が進展するなかで,民間大企業労働組合を軸とする戦線統一運動の進展をみるようになった時期(1975‐89),(第5期)新しいナショナルセンターとしての連合の成立をみ,〈総合生活闘争〉が進められるようになった時期(1989‐ ),およそ以上五つの時期に分けることができよう。
[第1期(1945‐50)]
(1)日本は1945年8月,敗戦によってアメリカの占領下におかれることになったが,占領軍によって〈非軍事化・民主化〉政策が推進され,その一環として同年12月には労働者の団結権を日本の歴史上はじめて公然と認めた労働組合法が制定されるという状況のもとで,45年の秋以降,労働組合の結成が急激に進展し,争議も頻発するようになった。…
※「二一スト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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